(主に企業の)研究開発に関する一考察(1) ~基本的な問題認識の振返りと整理~

近頃、研究開発戦略について議論をする機会が増えてきた。量子コンピュータなどエマージング技術が登場していること、デジタルやデータの時代になり研究開発のテーマややり方に変化が求められていること、日本企業の短期思考(志向?)化に伴い長期目線での技術や市場の不確実性への挑戦(とそこからの新しい事業の創出)が出来ていないことからの不安感、など様々な理由が背景にあるのだと思う。政府の半導体・デジタル戦略や量子技術イノベーション戦略など政策面での動きも活発で明るい話であると感じる。この領域は既に様々な議論がされているので、無力な小生が何か付け加えることは無いが、あくまで自分の頭の整理のためにメモを起こしてみようと思う。

 

基本的な問題意識としては、日本は何故(他国と比べて)研究開発投資のパフォーマンスが高くないのかということであろう。日本は先進国で最も研究開発費を投入している科学技術立国であることは有名である。しかし、一方で研究者一人当たりで見ると景色が異なる(ことも有名である)。

 

研究開発を担っている主体を国別で見ると日本は米国に近い産官学連携モデルであるが、中国、韓国は全く異なるモデルであることが分かる。ただし、米国は軍事研究によりGPTが創出される基盤が存在するため、日本とは根本的に異なる点は重要であり『企業家としての国家』(Amazon - 企業家としての国家 -イノベーション力で官は民に劣るという神話- | マリアナ・マッツカート, 大村昭人 |本 | 通販)などでも多数指摘されているとおりである。中国は基礎研究、応用研究までは国家の果たす役割が大きいところは流石国家資本主義といったところか。一方、韓国は基礎・応用・開発研究の全てにおいて企業の比率が高く、要はサムスンやLGなどの財閥企業が全部やっているということであろう。

 

次に研究開発領域の推移を見ると、これまた有名な話ではあるが傾斜配分をした米国、中国としなかった日本という構図が浮かび上がってくる(主要国の技術分野別パテントファミリー数割合の推移からの類推)。中国は国家資本主義なので振り方が半端ないが米国も情報通信技術が増えている(あくまでパテントの出願動向であり、米国にはシリコンバレーがあるからあくまで事後的な結果ではないかという見方もできるが)。

因みに、日本は低学歴国であることが昨今指摘されているが、これはデータから明らかにそうである。

 

このような問題意識の下、やはり次のような疑問が湧いてくる。①日本の競争力はなぜここまで落ちたのか?、②日本の製造業はかつて本当に強かったのか?、③そもそも何が原因か?、そして今の個人的な最大の関心は、企業にとって研究開発とは何か?、もっと言うと何と捉えられていて、本来は何であるべきか?、である。

そこで一般的に言われている指摘を整理すると下記のとおりになると考えられる。ここではMOTでもおなじみの魔の川、死の谷ダーウィンの海で整理してみた(そもそもそれ自体がリニアモデル前提でダメなんじゃないかとのご指摘はご尤もであるが一旦此方で整理してみた次第である)。

 

まず、魔の川に関しては研究開発(R&D)、特に研究(R)の位置づけの難しさが(特に企業の研究開発においては)挙げられよう。嘗てのようにリニアモデルが成り立つ領域が限られてきていることやプロダクトアウトの弊害への指摘などがあるなか、投資家からの圧力等もあり、新しい市場を創出するための不確実性への挑戦としての研究は難しくなり、先々行開発やリスク低減のための取り組みとならざるを得ない局面が増えてきているというのが実態であろう。嘗て日本企業は技術はあるが死の谷を超えられずビジネスで負けるというのが定説であったが、状況は大きく変わったように感じる。次に死の谷であるが、此方はEVA経営の弊害という言葉は言い過ぎかもしれないが投下資本の多寡が増大していること、グローバル競争で日本は規模の経済やスケーラビリティ、時間の経済で劣後すること、昨今のデジタルは多面市場でありWinner Takes Allが更に強く働くのでそもそも勝ち筋が見えづらくなっていること、など問題をあげたらキリがないであろう。最後にダーウィンの海であるが、これも様々ところで指摘されていることであるが、大企業によるスタートアップ買収など(略奪的成長:Predatory Growthの指摘など今後の競争法の行方次第ではあるが)技術を事業化するためのエコシステムが充実している海外と比較し、日本はIPOがスタートアップのEXITの中心であるなど問題は多い。

 

といったところで、少し長くなってきたため一旦この辺までとし、リニアモデルとポストリニアモデルの問題点などについて、また自分の頭の整理のためのメモを時間を置いて整理しようと思う。

止揚、コペンハーゲン解釈、『ロックで独立する方法』

先日、会社の先輩と欧州のデータ基盤や標準化の動向に関する議論をしている際に、通説・多数説(博識な会社の後輩から有力説というものもあるがそれは海外の文献には出て来ない日本独特の考え方のようであると教えてもらった)の話しになった(小生から話しを振っただけなのだが、20年前に亡くなった部長をはじめ仕事だけでなく学問の先生的な先輩がいるのはとてもありがたいことである)。欧州は(米国も同様かと思うが、欧州の方がその傾向は強いようである)、「より良い社会」に向けて常に発展し続けるということが根本にあり、どれだけ時間がかかって、非効率だとしてもDistributed Systemでやっていくというのが根付いている、と言うか「これしかないし、今までこれでやってうまく行ってきた」というある種の割り切りがあるような気がする。解析学のアナロジーで行けば「収束」「振動」「発散」の何れかの極限となるであろうが、「収束」はしないまでも「振動」(これが所謂「止揚」であろう、正確には螺旋階段を登るので単純な「振動」ではないが)にも分岐せず「発散」してしまい、複数の説が乱立して収拾がつかなくなり無秩序状態になることも考えられるが、自然科学ではないのでそうはならないという算段があるのかもしれない。入社したての新人研修の際、毎週書籍を読んでレポートを提出するという課題があり、野口悠紀雄の『バブルの経済学』(バブルの経済学―日本経済に何が起こったのか | 野口 悠紀雄 |本 | 通販 | Amazon)について書き、資産の期待値が増加し続けることはありえず無限等比級数の和はどこかで「収束」するはずで「発散」することはあり得ないのでバブルは不合理であると書いたら、「あなたの考察には「収束」と「発散」しかなく、「振動」の条件分岐が抜けている」と添削が返ってきて、数学的な説明と経済学的な説明を丁寧につけてくれていたことを思い出す。まあ、無尽蔵にお金があるわけではないので資産の期待値が無限大に発散するはずはないなど人間社会では「発散」は余り考える意味がないというのは当たり前だが、数学に頼り過ぎだったと反省している(笑)(昔、部長に「理科系の人間は思い込みが激しいのと(それはそれで良いことだが)、数学に頼りすぎるので論理的でない」とよく言われた)。

加藤周一が「今=ここ」文化で指摘する関心が時間的にも空間的にも近傍に集中しているということや幕藩体制の長子への家督相続に代表される何よりも秩序を乱さないことを大切にするということなどが特徴的な日本とは大分異なると感じる(勿論、別に良い悪いの問題ではなく)。大分前に読んだ『鑑の近代』(Amazon - 鑑の近代: 「法の支配」をめぐる日本と中国 | 古賀 勝次郎 |本 | 通販)にあった「儒家(徳治)が強く法家(法治)が根付かなかった中国が近代化に遅れ儒家の影響力がそこまで強くなかった日本が近代化に成功した」という趣旨の指摘や『法哲学講義』(Amazon - 法哲学講義 (筑摩選書) | 森村 進 |本 | 通販)にあった「中国をはじめとするアジアには基本的に刑法しか存在しない」という趣旨の指摘はとても参考になると感じる。極端な言い方をすると縦の関係が強い東洋と横の関係(私人間関係)も強い西洋ということが背景にあるのかもしれない。まあ、単なる妄想であるが。なお、先日の会社での先輩との議論では欧州であれだけデータ基盤や標準に関し日々大量にドキュメントが出てくる(GAIA-XやIDSに関する文献分析をRRIロボット革命イニシアティブ|トップページ (jmfrri.gr.jp))の分科会で行っているのだがドキュメントの海に溺れそうである)背景には、「低学歴社会」である日本との彼我の差があるのではないかとの指摘を受けたが、小生学卒で低学歴側なのでそれについては何も発言する資格がない(笑)。

ところで、先日も書いたように規範科学である法学と形式科学である数学はよく似ているなと勝手に思っているのだが、そこで感じる、というよりも今まで知らなかった世界(法学は学生時代に勉強していないし、純粋数学は学生時代からのコンプレックスの塊だし、という意味で(笑))からの気づきとして思うのは、観念論の重要性である。コロナ禍が始まったぐらいのタイミングで読んだ『実在とは何か』(実在とは何か ――量子力学に残された究極の問い (単行本) | アダム・ベッカー, 吉田 三知世 |本 | 通販 - Amazon.co.jp)が非常に面白かった。中身は所謂量子力学の解釈論に関するもので、ボーア・アインシュタイン論争に始まり、ベルの不等式の破れ、多世界解釈などについての本である(個人的にはパイロット波を初めて提唱したのがアハラノフ=ボーム効果で有名なアハラノフだというのは知らなかった)。昔読んだ(内容的にも数学的にも難しすぎて3分の1も理解できなかった)『不完全性・非局所性・実在主義―量子力学の哲学序説』(Amazon - 不完全性・非局所性・実在主義―量子力学の哲学序説 | マイケル・L.G. レッドヘッド, Redhead,Michael L.G., 寿郎, 石垣 |本 | 通販)と比べ遥かに読みやすく、楽しめた。やはり最も面白いと思うのはボーアとアインシュタインの論争でアインシュタイン論理実証主義から始まる実証主義の流れを徹底的に批判していることである(アインシュタイン相対性理論を構築するにあたってマッハの影響を受けているはずなのでそういうことを言うこと自体が興味深い)。観念論無しでモデルは作れないということを分子運動論の事例などをあげながら指摘している。ボーアとの論争に挑むためにEPR論文を執筆し、結果的にベルの不等式が破れていることが実証され、今の量子コンピュータのブームにつながっているところがまさに「止揚」であり「より良い社会に向けた発展」なのだなと思う(途中、実験で実証が入っているところが自然科学の特徴というか、強いところだと思うが)。小生が学生時代はコペンハーゲン解釈が一般的で多世界解釈は出始めだったと記憶しているが、人間原理も流行っていた(フジテレビの深夜番組の『アインシュタインTV』でも取り上げられていた)。流石に人間原理、それも強い人間原理まで行くと着いて行かれないが。小生学生時代に好きだったベスト3は量子力学解析力学離散数学だったのだが、解析力学離散数学が圧倒的に美しいところに惹かれたのに対して量子力学はほぼ哲学だったところに惹かれたのが理由であった。ここらへんの発言は物理学帝国主義者丸出しである(笑)。

実験ができず実証主義と観念論の組合せがなかなかに難しい人文社会科学(経済学はその点でほぼ物理だと思う、ただ、経済学は物理学の劣化版と発言して以前にものすごく怒られたことがあるので気をつけたい)では止揚するためにオリジナリティの追求が重要になるのだと思うが、美術や音楽などが参考になるように感じる(アバンギャルドに憧れると言うのはおじさんになってしまった今でもあるし)。その点で完全に個人的な意見だが忌野清志郎の『ロックで独立する方法』(ロックで独立する方法 (新潮文庫) | 清志郎, 忌野 |本 | 通販 - Amazon.co.jp)はお薦めである(新潮文庫で文庫化されている)。ロックが市民権を得た現在はかえって若い人はオリジナルを追求することが難しくなったという指摘や「成功する方法」ではなく「独立する方法」というタイトルにした理由など、めちゃくちゃ面白いし、かっこいいな~と感じる。

マクスウェルの悪魔、あるいは情報熱力学とセレンディピティ、そして通説・多数説

GW前に小生が所属している有機エレクトロニクス材料研究会、通称JOEMで「非平衡現象」をテーマとした研究会(249.pdf (organic-electronics.or.jp))があり、途中から参加した。同日パシフィコ横浜で開催されていたOPIE`22(OPIE'22 - 光とレーザーの最新技術・製品・情報が集結!)のIOWNのセミナーにも参加していたため途中からとなってしまったが、非常に面白い研究会であった。非平衡系は散逸構造に代表されるように秩序の形成とも関連し(平衡系でないのに秩序が生まれるところが)非常に面白い。大学1年の時にドイツ語の授業をサボって(女性の先生で、ものすごく厳しかったのだがドイツ語は会社に入ってシュツットガルトに常駐していた際にブンデスリーガを見に行きダフ屋との交渉でfünfzigをfünfzehnと間違えて彼らが何故怒っているのか分からなかったほどに忘れている)ノーベル賞受賞者セミナーでイリヤ・プリゴジンの講演を聞きに行きとても衝撃を受けたのを昨日のことのように思い出す。シュレディンガーの『生命とは何か』(生命とは何か: 物理的にみた生細胞 (岩波文庫) | シュレーディンガー, Schr¨odinger,Erwin, 小天, 岡, 恭夫, 鎮目 |本 | 通販 (amazon.co.jp))の生命とは負のエントロピーを食べるものだというのも、所謂散逸構造の話しであり一時期プリゴジンに大分嵌った。『混沌からの秩序』(混沌からの秩序 | I. プリゴジン, I. スタンジェール, 伏見 康治, 伏見 譲, 松枝 秀明 |本 | 通販 | Amazon)は難しかったが、『確実性の終焉』(確実性の終焉―時間と量子論、二つのパラドクスの解決 | イリヤ プリゴジン, Prigogine,Ilya, 誠也, 安孫子, 佳津宏, 谷口 |本 | 通販 - Amazon.co.jp)は読みやすかった(なんと絶版になっているらしい、本棚のどこかにあるはずなので大事にしようと思う)。

さて、同研究会の最後の古川先生の「水面で自律運動するイオンゲル:材料開発と多体系への拡張」についてのご講演のなかでマクスウェルの悪魔の話題があり、情報熱力学との関連で質問した。ちょっと前まではトポロジカル絶縁体に嵌まり、JOEMでも研究会(245.pdf (organic-electronics.or.jp))を開催したが、今は情報熱力学がマイブームである(Suri_Kagaku_Final_Version.pdf (u-tokyo.ac.jp))。今度共立出版から出る本(非平衡統計力学 | 沙川 貴大 |本 | 通販 | Amazon)を楽しみにしているところである。JOEMの研究会では自己駆動粒子や自己組織化などの発表があったのだが(此等前半のプレゼンは残念ながら聞けなかった)、古川先生の発表は水面で自己駆動するイオンゲルについての内容であった。そのなかで2つの部屋に分けその間にスリットをつけることで分子運動を模倣しマクスウェルの悪魔を実現するという構想を伺った。マクロな系でマクスウェルの悪魔が実現出来たら凄いと思うし、ミクロな系とは異なるマクロな系ならではの事象が発生するのか否かも興味深い。

その後、JOEM名誉会長の谷口先生にお声掛けを頂き、先日古川先生の研究室を訪問させていただいた。実際にイオンゲルが水面を動いているのを見たときには「生き物みたい!」と素直に感動した。原理は樟脳が水面を動くのと同じで、表面張力の違いにより駆動力が発生する。しかし、形状によっては力が均衡してしまい動かなくなってしまうような気もするが、それについても理論計算をされており、ポテンシャルの極小解ではなく鞍点であるため不安定であり、止まることはないそうである。研究室を立ち上げられてから実験を洗練化しつつ様々な成果を出されているが、その裏には数多くの試行錯誤があることを伺った(試料の作成などまさに職人の域であった)。そのようななかで、学生が思いもよらないことを試してみて新しい発見があった事例をいくつか紹介していただいた(論文発表前で理論的解明中とのことなので詳細は割愛する)。古川先生もゲルの性質を考えると常識的にやってはいけないということから当初から想定外においていたことをやった学生が新たな発見をしたとのことである(小生も学生時代にゾルゲル法でゲルは扱っていたので、常識的に考えたら普通それはやらないよなということであった)。所謂セレンディピティであるが気づいていない常識や固定観念を超えるのが如何に難しいかということに改めて気付かされるとともに若い人は常に正しいという誰かが言っていた(誰だったか忘れてしまった)言葉を思い出した。(純粋)数学は若者の学問であると一般的に言われるが東大薬学部の池谷先生に何故そうなのか質問したことがある(異なる知識や知見の新結合がイノベーションであるとするとつなぐものが多いほど新発見できるのではないかとずっと不思議に思っている、勿論純粋数学に対するコンプレックスだが(笑))。頂いた答えは、若い時は直感的にそのものを捉えられるが年を重ねるとそれを敷衍化して捉えるようになってしまうことが原因のひとつということであった(抽象化の学問である数学の背景にそういうことがあるのは面白いな~、と思う)。幾何学などはまさにそうなのだろう。自分もすっかり中年になったので戒めにしたいと危機感を持ったのが正直なところである。やはり(常識や固定観念を超えた)外挿にしか価値は無いということだと思う(最早人間は内挿ではAIには絶対に勝てないので当たり前だが)。その点で“兎に角やってみる”、実験の重要性を改めて強く感じた。古川先生の研究室で応物の2021年Science As Artを取られた「ミルククラウンの内部構造」(ミルククラウンの内部構造 (jst.go.jp))を拝見したが、此方も有名なミルククラウンの実験で、出来たミルククラウンは落ちてきた液滴のミルクと下にあるミルクとどちらの構成比が大きいのかという疑問から、兎に角やってみたとのことである。

そしてこの写真なんとiPhoneで撮影したそうである。昔と違って疑問に思ったことをちょっと試してみることは遥かに容易になった(のに、意外と手を動かしていないのだなと、自分だけかもしれないが)強く感じた。やはり自然科学は実験により自然が答えを返してくれるところ、また実験の(一見したところ)失敗が気づきを与えてくれるところが魅力であろう。まあ、自然科学系に限らず失敗はLearning Opportunityと言うのは真理であるし、以前に尊敬するベンチャーキャピタリストの方がおっしゃっていた「失敗できない理由はなんですか?」という言葉をふと思い出した。

ところで、小生、コロナ禍に入る前から法学をリカレントの一貫で勉強しているのだが、同じ文化系の学問でも経済学(経済学は海外では理系に分類されていると聞いたことがあるが)とは大きく異なると感じることが多い(経済学は必ずしも実験が出来ないということはあるが物理学に似ているのであまりそのように感じたことはない)。もともと今の専門性と距離がある理論的な領域を拡大したいというモチベーションで法学を選択したので、それ自体が面白いのだが、「通説、多数説」という考え方は自然科学系にはあまりない特徴だと感じる(自然科学でも理論は仮説でしか無いのである程度はそのような考え方はあるにしても、怒られるのを覚悟で書くと政治的というか陣取り合戦的で科学でないような気がしていた、後述するように今はそうではないが)。人間を相手にしている学問であり、その多くが答えがない問題であるということが背景にあると思うが、勉強していて面白いと思うのは、通説と言われているものは確かに合理的で理解しやすいフレームワークであり、「言われてみればそうなんだけどなかなか最初からは思いつかない」というところが数学の証明に似ていると感じる(形式科学と規範科学で似ているところがあるのだろう)。刑法総論の法的因果関係の「危険の現実化」などは典型例だと思う。因みに小生基本7科目の中では(もっとも刑事訴訟法はまだ勉強していないのだが)刑法が一番好きだが、理由は数学に似ているからだと思う。そんななか、直近の法学セミナーが『刑法の「通説」』の特集(法学セミナー2022年6月号|日本評論社 (nippyo.co.jp))なので早速買って読んでいるがめちゃくちゃ面白い(全く関係ないが6月号は数学セミナー数学セミナー 2022年6月号|日本評論社 (nippyo.co.jp))もガロア理論だったので買ってしまった)。そのなかで、新規性のある学説を打ち立てるためには一般的な見解が妥当でないと考えて論を立てる必要があり、その際に批判対象となるのは通説であり、通説を批判する説が多数出てきて通説が入れ替わることがある、という趣旨のことが書いてあった(一方で学説が乱立し収拾がつかなくなることもあるとの指摘もあったが)。まさに正反合、振り子理論だと思うが、結果的にそれで外挿が進むのだなと腹落ちした。そのための条件は新規性、オリジナリティの追求(某財団でお話しをする芸術家の卵の美大生の方は皆さん人と異なる自分だけのオリジナルを追求していて魂の純度が高いって羨ましいなと、「汚れちまつた悲しみに」なおじさんはいつも感じる(笑))なので、先日古川研究室で改めて感じた、気づかない常識の罠に嵌らないためにも(年齢的に頭の固いおじさんになってしまった純然たる事実を意識しつつ)襟を正したいと思う。

今=ここ文化、あるいは日本文化における時間と空間と戦略的思考

「日本人は不満に強く、不安に弱い」という指摘は様々な場面で「確かにそうかも」と思わせる普遍性があるように感じる。このGWは特に遠出はせず読書三昧であったが、そこで読んだ本でもそう感じることが多かった。日本政治論、戦後日本外交史、集団的自衛権天皇制、経済法などについての本を読んだが(とっちらかっているように見えるかと思うが、最後の経済法を除き一応自分の中では関心がつながっている)、振り返ってみると政治に関する本が多かったこともその要因かもしれない。「祭り上げ型の組織構造(天皇制リーダーシップ)」は統治構造や企業のマネジメントでもそこかしこに見られるが、マネジメントが無能でも「不満」に耐える(株主資本主義が機能していない日本ではまだ残存していると思う)という意味では日本を代表する特色であろう。

昨今流行りのデジタルの前、2000年代はじめのITバブルのころにソローパラドックスが話題になった。情報通信産業を見ている室に所属していたこともあり、当時色々と文献を読んだが、組織構造の違いがIT投資による生産性向上に大きく関係しているというのが結論のひとつ(1104seisakukoka19.pdf (cao.go.jp))であったと記憶している。最近話題のデジタルはコンピューティングパワーの増大とそれに伴うソフトウェア化を背景に当時と異なりCyberとPhysical、ITとOTなど対象範囲が多岐にわたり、いわゆるSystem of systems(SoS)の発想が必須なのでより大きな複雑系であり、その成否に組織構造が与える影響は大きいであろう。

「祭り上げ型の組織構造(天皇制リーダーシップ)」の背景には日本のムラ社会があると言われる。曰く、農耕文化である日本ではコンフリクトを発生させることを最も嫌い長期的な秩序や社会的安定を最重視してきたという説である。幕藩体制での長子相続はどんなにボンクラでも初めから長子に家督を継がせることをルール化することで無用な争いが発生することを避け260年近い平和を維持したそうである(最も江戸後期に入ると財政が苦しくなる藩が増え、優秀な人材を養子とすることで実質的には同ルールは崩壊していたようであるが)。

一方で日本は「今=ここ」文化が特徴であるとも言われる。同説は加藤周一氏(ご近所さんであった、眼光鋭くオーラを漂わせており目立つので近所で見かけるとすぐに分かった)が提唱したそうだ。『日本文化における時間と空間』(日本文化における時間と空間 | 加藤 周一 |本 | 通販 (amazon.co.jp))によると、日本人は時間においては「今」に、空間においては「ここ」に集約される世界観を持っており、「今=ここ」に生きていることが特徴であるそうである。このため昨日の立場と今日の大勢の一貫性に固執せず大勢順応主義への圧力が強く、その背景には強い集団帰属意識、所謂ムラ社会の意識があるとのことである。であるがゆえに、幕末に尊皇攘夷イデオロギー的には開国とは真逆であった薩長を中心とする新政府が急速な西洋化を推し進め、戦後には特攻や一億層玉砕と言っていた日本人の抗戦意思の高さを重視し占領には80万人以上の兵力を要するとした米軍部の憂慮は杞憂に終わりスムーズな民主化を進めることが出来たそうである。

さて、個人的な話しで恐縮ではあるが小生昨年からオペレーションズ・マネジメントを勉強中である。理論的で体系的な知見がないとダメだという問題意識が背景にあるが、その一環で読んだ教科書である『現代オペレーションズ・マネジメント』(現代オペレーションズ・マネジメント: IoT時代の品質・生産性向上と顧客価値創造 (シリーズ・現代の品質管理) | 隆夫, 圓川 |本 | 通販 | Amazon)に「今=ここ文化とビジネス・技術」というコラムがあり非常に腹落ちした。なお、ネタばらしをすると一般財団法人エンジニアリング協会(ENAA)(一般財団法人エンジニアリング協会(ENAA))の勉強会で同書のご著者の東工大の圓川先生のご講演を拝聴した後に同書を読み、更に加藤周一氏の書籍を読んだという経緯である。曰く、「今=ここ」を重視するから将来や外の世界に対してのリスクマネジメントに無頓着となる(が、一度IoTパラダイムが大勢を占めるようになれば大勢順応主義故に一挙にそちらに流れる)一方で、組織内での同質競争に基づき、「うち(ここ)」と外の関係から外部に上位の文化があるという相対劣化のメンタリティにより不良0、故障0と言った無限遠点に目標を置いた日本独自の「改善」が駆動されるとのことである。それ以外にも「ここ」を重視する故に部分からの建て増し思想がベースとなり仕上げの美学や擦り合せの設計に強いなどの説明もなされていた。極めて腹落ちする内容である。理論はこう使うんだな、というお手本を見たような感じがした。そんな時ふと、社会人になりたての頃、「戦略的思考とは科学的でないものを科学的に扱うことである」と先輩に言われたことを思い出した。そのためにも理論的ドメイン専門性の数を増やし、それらを結びつけて新しい視点を導出できるよう、体系的知識を身につけるべく日々精進しようと思う(GW明け初日なので気合を入れる意味も込めて(笑))。

「日本人は不満に強く、不安に弱い」とはどのような意味を持っているかについての考察

「日本人は不満に強く、不安に弱い」とよく言われる。その裏返しとして「欧米人は不安に強く、不満に弱い」ということも言えるのであろう。不満が新たなニーズを生みイノベーションの源泉であるとすると(「機能飢餓」はその典型例であろう)、日本人の「不満に強い」という特性は弱みであるとも言える。尊敬する起業家の各務太郎さんは著書(Amazon - デザイン思考の先を行くもの | 各務 太郎 |本 | 通販 のなかで「不便に気付くことは才能である」という趣旨のことを書いておられるが、不便であるから不満に感じるのだとすればやはりイノベーションに対する気づきを得る(「0→1」)という点では、不便さに対する感度を意識的に常に高く保っておく必要があると言うことだと思う。日々の生活のなかで不便だと感じなくなったら、失敗しなくなったらチャレンジしていないことの証拠(裏返し)であるというのと同様に危険信号だと襟を正したい。

さて、前回、前々回と大局観やAIなどについて考えていること(もやもやっと悩んでいることも含め)をつらつら書いてみた。この文脈で「日本人の不満に強く、不安に弱い」という特性はどの様に解釈できるかについて改めて考えてみたい。コロナ禍で読書時間が増え今更ながらにマルクス経済学に嵌ったこともあり(小生恥ずかしながら、時代背景や単に自分が精神的に幼かったこともあり、高校、大学時代にはマルクスには全く興味がなく麻疹にはかからなかった)、長い話しから考えてみる。史的唯物論の教えるところによると生産関係を中心とする経済の仕組み(土台)が政治や法制度や人々の生活など社会(上部構造)を決めるとなっている。その典型例として産業革命により道具が機械に変わったことで熟練の価値が低下し(不熟練化)、資本主義(自己増殖する貨幣としての資本、労働指揮権としての資本)に移行したと一般的に言われている。この観点からAIの意味を考えてみると色々と妄想が膨らんで面白い。まず、AIの分かりやすいユースケースとして暗黙知形式知化することで熟練者の労働力不足や技術承継を解決するというものがあるが、これはまさに史的唯物論の延長線上であろう。一方で、AIに何をやらせるか(指示)についてはむしろ熟練(それを熟練と言うならば)の価値が上がるとも考えられる。そう思うようになったのはコロナ禍に入る前の週末の一時、上野を散歩していた際に芸大のキャンパスでふと見かけた人工知能美学芸術研究会(AI美芸研)という団体(人工知能美学芸術研究会(AI美芸研) (aibigeiken.com))の研究会にふらっと立ち寄って余りの面白さに衝撃を受けたことがきっかけである(聴講者の中に有名な「セーラ服おじさん」がいたのにもびっくりした、流石芸大と唸ってしまった)。参加したのは第26回AI美芸研 「S氏がもしAI作曲家に代作させていたとしたら・2」という内容の研究会であった。佐村河内守氏(S氏)が新垣隆氏(A氏)に交響曲ゴーストライターを依頼していた事件を取り上げ、A氏ではなくAIに代作させていたら話しは変わったのではないかという問題提起に始まり、音楽の制作は「記譜=作曲」と「解釈=演奏」に安定的に二分化されてきたが、同事件により「発案=指示」と「解釈=記譜」に二分され、ソースの側により優位性があると考えればAIに代作させるための「指示書」(S氏)の方に創造性が存在すると言えるのではないかという趣旨の内容であった。目から鱗が落ちた思いだった。AIの保険業界への適用事例でも従来の保険サービスとは別にAIを用いてリスク評価の部分に特化するプレイヤが登場してきているがAIによる価値連鎖のアンバンドルとよりソース側に価値があるという基本原則が正しいならばAIは人間の「熟練」の価値を再定義することにつながるのではないか。小生はAIの専門家でも科学哲学の専門家でもないので単なる妄想であるが、この背景にはAIがもつコネクショニズムとシンボリズムという2つのアプローチが存在することがあるのではないかと思う。通常人間が物事を考えるときにはシンボリズム的な考え方(論理)を使うことが多いと思うが、実際は脳の中の処理はコネクショニズムがベースであり、(第3世代の)AIがそれを模倣したことが大きいのではないであろうか(最近、読んだ本(Amazon - 心を知るための人工知能: 認知科学としての記号創発ロボティクス (越境する認知科学) | 忠大, 谷口 |本 | 通販)で身体性を持たせることでAIにとっての難問であったシンボルグランディング問題(記号設置問題)は解消されるということが書いてあり此方も目から鱗が落ちた)?やはりAIは目から鱗が落ちまくりな分野横断、世界観や歴史観を跨いで色々と考えるにはとても良いテーマなのだと思う。

では、何故そのようなことが起こるのか(AIにより「熟練」の価値が再度上がるのか)?これについては先述した各務さんが出演されている「日本のものづくりは生き残れるか」というディスカッション(【PR】HONDA New Age Driving | 日本のものづくりは生き残れるか (newspicks.com))がとても参考になる。「機能飢餓」がなくなり「機能的価値」が訴求しなくなるなか、「意味的価値」の重要性が増してきており、様々なものにコンテキストを与えることが重要となっているということが議論されている(それだけでなく、何故フィレンツエの街並みはあれほど美しいのかという話しから始まって車と茶室の共通点など非常に面白い内容が議論されているので一度ご覧になられることをお薦めする)。「AIの意味的価値との親和性の高さ」(あくまで私見としての仮説)と言うのはひとつのヒントなのではないかと思う。各務さんやAI美芸研の発起人代表であられる中ザワヒデキ氏(同氏の『西洋画人列伝』(Amazon.co.jp - 西洋画人列伝 | 中ザワ ヒデキ |本 | 通販)の古書をAmazonで購入して読んだが非常に面白かった、小生が中学の時から好きなエル・グレコマニエリスムを代表する画家として紹介されている)が建築家や美術家であるのは、その証左なのだろうと強く感じるからである。

AIの進化が「機能飢餓」に与える影響についての考察

前回、経済循環の波動のなかでAIがどの様に位置づけられるかについて私見を述べた。いくつかある経済波動のなかで最も身近に肌で感じられるのはここ数十年の技術革新の波、なかでもコンピュータと通信・ネットワークの飛躍的な進歩であろう。全くの個人的なこだわりと言うか基本的な考え方(偏見?)であるが、学生時代に物性物理、光(非線形光学の研究室に所属していた)について研究(というほどではなく勉強)したこともあり、半導体とITにはずっと拘り続けてきた(小生、基本的に物理学帝国主義者であった(ある?)、しかし、最近学生時代に最もバカにしていた法学を勉強し始め視野が狭かったと改めて自分の不明を恥じている)。理由は単純にエキセントリックでワクワクするから。少し小洒落た言い訳をすると、半導体はあらゆるところで使われ18ヶ月で2倍という他の技術にはない圧倒的なスピードでの性能向上を長期間継続しているまさに「産業の米」(死語?)であるし、ITは社会インフラであること、が理由である。人類が最もうまく使いこなした元素は銀とシリコンであるという話しを昔よく耳にした。有機エレクトロニクス材料研究会(http://www.organic-electronics.or.jp/)に所属していることもありダイナミックレンジやフレキシビリティに優れた(一方で耐候性が極めて脆弱な)有機材料をエレクトロニクスに応用することを検討する機会も多いがほぼ全てのケースでシリコンと銀が大きな障壁として立ちはだかっていることが多かったように思う。

大学時代や社会人になった頃はパソコンの性能が脆弱で(大学時代の研究室ではレーザや光学機器などにお金がかかるため、当時100万円近くしたマックは変えなかった)、圧倒的にパワーが足りなかった(よってよく落ちた、会社に入って念願のマックを使わせてもらえるようになったが爆弾マークに苦しめられた)。そんななか会社の大先輩から「機能飢餓」と「スケーリング」が半導体、もっというとエレクトロニクスを支える根本原理だと教えてもらって目からウロコが落ちまくったのを思い出す。ユーザが要求する機能・性能やコストに対してシーズが提供するパフォーマンスが圧倒的に足りないので新しい技術に対する需要が発生しプレミアムが乗るし、半導体の微細化が進むことで物理的な性能が向上するとともにウェハ一枚あたりから取れる半導体チップの数が増えるので、半導体チップの価格(ユーザにとってのコスト)は下がり、ウェハ一枚の価格(サプライヤにとっての売上)は上がるというメカニズムを教えてもらった時は魔法のようだと感じた(転換期の半導体・液晶産業 | 直野 典彦 |本 | 通販 - Amazon.co.jp)。ムーアの法則によりその後コンピュータの性能は指数関数的に向上し今ではそれを如何に活かすか、所謂デジタルトランスフォーメーション(DX)が社会課題となっている。「機能飢餓」が消滅しコンピュータの能力が圧倒的に増えたことで、ソフトウェアで処理できる範囲が広がり、更にAIが出てきたこと(とデジタルデータが増えたこと)でデータ駆動が容易となり、競争変数の変化(時間の経済等)、産業構造の変化(サービス化、産業融合や組み換え等)、社会構造の変化(エコーチェンバーやデジタルレーニズム等)などが進んだと言われている。そういう点ではやはり前回触れた波動論ではAIは技術革新の波であるだけでなくそれ以外の波とも言えると思う。

一方で現在に至るまで「機能飢餓」が消滅する毎に成長市場がシフトし、勝ち組が消滅するのを目の当たりにしてきた。嘗て様々な人々がベンチマークとしてきたNokiaがなくなるとはやはり驚きであった。商売柄、市場が成熟するたびに専門領域を変えていかなくてはならないのはやや厄介であるがそれはそれで色々経験できて面白い。ラスベガスの花形イベントもコムデックス(PC)→インターロップ(ネットワーク)→CES(デジタル家電、最近は車)と移り変わってきた。

AIは進化するために大量、かつ質の良いデータ(「データの質」については色々考え中)が必要となるが、このことは「機能飢餓」をリブートすることを通じて技術革新に大きなインパクトを与えると思う。基本的に今まではデジタル機器の使い手は人間であり、人間の要求する機能や性能を超えると「機能飢餓」が消滅(「機能飽和」)してきた。いわば人間のイライラ、不満が解消されるだけのパフォーマンスを提供できれば「機能飢餓」は解消されてきたと言える(「日本人は不満に強く、不安に弱い」という言葉は会社の大先輩の言であるが、これがAIを考える上でどのような意味を持つのかは別途よく考えようと思う)。しかし、AIが人間の代わりに認知、判断する場面が増えてきたことに伴い、「機能飢餓」における人間の認知能力という射程は意味をなさなくなった。現在販売されている液晶テレビの上位機種は8K(7,680×4,320:3,317万7,600画素)であるが、人間の目の実効上の解像度は700-1000万画素程度と言われているので既に人間のそれを上回っている(勿論、解像度だけで比較できるわけではないし、脳の認知のメカニズム等も考慮する必要があるだろうが)。イメージセンサの性能は継続して向上しているが、人間が見ることだけが前提ではなくAIに対するインプットのためのデータ獲得に向けセンサとしては「機能飢餓」な状態にある。性能向上に対するニーズは(解像度だけでなくダイナミックレンジなど様々な指標やマルチモーダル対応なども含め)続くと思われる。AIが外挿を不得手とし、内挿が中心である限りはどこかで「機能飽和」を迎えるかもしれないが、現在主流のAIのベースにあるコネクショニズム帰納アブダクションに近いことを考えるとインプットの質や量に対する「機能飢餓」は範囲や対象を変えて(広げて)継続するのか、もしくは所詮はGIGO(Garbage in, garbage out)なのでそんなことは無いのか、何れにしてもAIと「機能飢餓」をキーワードに色々と妄想は膨らんで面白い(笑)。

メモ代わりとしてのブログ開始の宣言と一回目(波動論再考)

この度、尊敬する外部の大先輩のブログ(タイム・コンサルタントの日誌から)に大いに影響を受け、自分もブログをメモ代わりに始めることにした。基本的に自分のメモのため(かつ更新圧力による強制的なアイデア出しのため)であるが、やはり自分の頭で考えられるようになるためにはインプットとアウトプットの双方が重要だとリカレントで新たな分野を学習するなかで再認識する場面が多々ありアウトプットをネット上に残す意味で始めた。

何について書くかつらつら考えたが(人の受売りではなく自分の意見をコンパクトに分かりやすく書くのは結構大変(汗)、だから勉強になる(笑))、ここのところの信じられないような出来事に触発され、大きな話しを書いてみた。

 

新型コロナウィルスによる世界的なパンデミックに突入してから早2年超が経過した。ロシアによるウクライナ侵攻とそれにより発生した第二次世界大戦後最悪と言われる悲惨な人道被害など、21世紀に生きる我々にとって従来であれば全くの想定外の事象が発生している(冷戦終了後むしろ世界各地で内戦やテロは多発しているので日本人の平和ボケではないかとお叱りを受けるかもしれないが、第三次世界大戦を現実的に恐怖することはキューバ危機を知らない小生が生まれて以降はなかったような気がする)。また、コロナ禍で問題が顕在化した日本のデジタル化の遅れに対する指摘や自身が実際に問題を認識する機会も増えた(押印のために出社する経験をした方も多いだろう)。デジタル化は更に加速することが確実であり、最近は量子コンピュータに関する記事を目にしない日はない。封建主義(≒権威主義)から民主主義へと数百年単位で発展(変化?)してきた流れを逆流する超長期の事象とムーアの法則に代表される数年単位での技術革新(量子コンピュータは非ノイマン型であり、量子計算という計算原理自体が異なるのでパラダイムシフトであるが)の超短期の事象が混在する嘗てあまり経験したことがない地点に立っているような気がする。

小生が今の会社に入社した頃(1990年代前半)、諸先輩方がコンドラチェフ循環など経済波動に関して議論している場面によく遭遇した(かつては弊社も今と違ってアカデミックな雰囲気が漂っていた)。当時は平成バブル崩壊の影響はあったもののジャパン・アズ・ナンバーワンの余韻も存在し、日本全体が活気に満ちていた(World Bank「World Development Indicators」によると名目GDPベースで世界に対して日本が占めるシェアは小生が入社した1990年代前半には18%程度あったが、95年以降低下し、2018年には5.7%となっているようである)。小生が配属されたのは情報通信関連の部署であった(正確にははじめに配属された室が嫌で情報通信関連の先輩に引っ張ってもらったのだが)為、ITバブルに向けて右肩上がりのタイミングであり、Windows95やインターネットの登場で極めてエキセントリックなワクワクする状況にあった(1996年米国通信法改正により米国で新興通信キャリアが多数登場し、ITバブル崩壊として最終的には弾けたが旺盛な投資に支えられネットワークとコンピュータの技術革新が加速度的に進んでおり、メインフレーマーに対するチャレンジャーであった弊社も活気に満ちていた、アンディー・グローブが大手町のオフィスに来た時の感動は今でも覚えている)。当時、金融機関の経営破綻が立て続けに起こり「複合不況」などに代表されるように日本経済の凋落や地下鉄サリン事件など「ぼんやりとした不安」が漂っていたことも社内で経済循環論が流行った理由だと思う。しかし、世界の超大国侵略戦争をここまで大規模に仕掛け核兵器の脅しにより第三次世界大戦を憂慮するようなことは流石になかった。冷戦終了により「歴史の終わり」がベストセラーになっていたので政治面では不安定要素がなくなったという意識(誤解)の方がむしろ強かったように思う。

その頃を振り返りつつ(早いもので社会人になって30年近くが経過した)今の状況を見渡すと、やはり人間は本質的にはあまり進歩しておらず、経済循環や波動論を再考することは「大局観」を再認識するために重要性が高いと改めて再認識させられる。人類の進化の過程での種々の革命(所謂、認知革命、農業革命、科学革命、産業革命)や封建主義から資本主義へのシフトなど数百年から数千年単位の波動は普段あまり意識しないが、民主主義から封建主義(≒権威主義)への逆流が起こりそうな現在、超長期の歴史観で考えることが重要と思われる。また、100年単位でのヘゲモニーの変化は世界史を勉強する際や「文明の生態史観」などでお馴染みであるが、今後ヘゲモニーを握ると言われている中国がここ数百年の成功事例(西側の価値観)と全く異なることから難題である。イノベーション(技術革新)を駆動力とするコンドラチェフ波動は最も有名な経済循環であるが、デジタル技術がELSIに代表されるように法や制度、市場メカニズム、倫理規範に与える影響が飛躍的に大きくなる中、他の波動との相互作用をより強く意識して考える必要があるように思う。一例をあげるとAIの波動論上の位置づけが直ぐに思い当たるであろう。1970年代のマイクロエレクトロニクス革命以来、半導体の進化(世代交代をベースとした機能飢餓とスケーリングのメカニズム)を通じ、コンピュータからネットワークへとつながっていった技術革新の波の延長線上にAIが位置づくのか?、そうではなくAIは他の波動と重なり合うことで他の波動の上に位置づくのか?すなわち、AIは単なる技術革新ではなく、自動化・自律化による取引コスト低減などデジタル化(≒疎結合化)による事業や業界の構成要素の組み換えなどの「産業構造変化」やソフトウェアでの処理範囲の拡大(一方で可読性が低い)などサービス化(≒as a service化によるRapid Deployとノウハウのブラックボックス化)による地理的なスケールアウト、経済植民地獲得などの「ヘゲモニーの変化」である、などの解釈も波動論をベースにすることで想起されよう。
何れにしてもあらゆる面で不確実な時代には外挿的な視点が最も重要だと思うが、それを得るためのヒントを波動論は与えてくれる思う。

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