AIの進化が「機能飢餓」に与える影響についての考察

前回、経済循環の波動のなかでAIがどの様に位置づけられるかについて私見を述べた。いくつかある経済波動のなかで最も身近に肌で感じられるのはここ数十年の技術革新の波、なかでもコンピュータと通信・ネットワークの飛躍的な進歩であろう。全くの個人的なこだわりと言うか基本的な考え方(偏見?)であるが、学生時代に物性物理、光(非線形光学の研究室に所属していた)について研究(というほどではなく勉強)したこともあり、半導体とITにはずっと拘り続けてきた(小生、基本的に物理学帝国主義者であった(ある?)、しかし、最近学生時代に最もバカにしていた法学を勉強し始め視野が狭かったと改めて自分の不明を恥じている)。理由は単純にエキセントリックでワクワクするから。少し小洒落た言い訳をすると、半導体はあらゆるところで使われ18ヶ月で2倍という他の技術にはない圧倒的なスピードでの性能向上を長期間継続しているまさに「産業の米」(死語?)であるし、ITは社会インフラであること、が理由である。人類が最もうまく使いこなした元素は銀とシリコンであるという話しを昔よく耳にした。有機エレクトロニクス材料研究会(http://www.organic-electronics.or.jp/)に所属していることもありダイナミックレンジやフレキシビリティに優れた(一方で耐候性が極めて脆弱な)有機材料をエレクトロニクスに応用することを検討する機会も多いがほぼ全てのケースでシリコンと銀が大きな障壁として立ちはだかっていることが多かったように思う。

大学時代や社会人になった頃はパソコンの性能が脆弱で(大学時代の研究室ではレーザや光学機器などにお金がかかるため、当時100万円近くしたマックは変えなかった)、圧倒的にパワーが足りなかった(よってよく落ちた、会社に入って念願のマックを使わせてもらえるようになったが爆弾マークに苦しめられた)。そんななか会社の大先輩から「機能飢餓」と「スケーリング」が半導体、もっというとエレクトロニクスを支える根本原理だと教えてもらって目からウロコが落ちまくったのを思い出す。ユーザが要求する機能・性能やコストに対してシーズが提供するパフォーマンスが圧倒的に足りないので新しい技術に対する需要が発生しプレミアムが乗るし、半導体の微細化が進むことで物理的な性能が向上するとともにウェハ一枚あたりから取れる半導体チップの数が増えるので、半導体チップの価格(ユーザにとってのコスト)は下がり、ウェハ一枚の価格(サプライヤにとっての売上)は上がるというメカニズムを教えてもらった時は魔法のようだと感じた(転換期の半導体・液晶産業 | 直野 典彦 |本 | 通販 - Amazon.co.jp)。ムーアの法則によりその後コンピュータの性能は指数関数的に向上し今ではそれを如何に活かすか、所謂デジタルトランスフォーメーション(DX)が社会課題となっている。「機能飢餓」が消滅しコンピュータの能力が圧倒的に増えたことで、ソフトウェアで処理できる範囲が広がり、更にAIが出てきたこと(とデジタルデータが増えたこと)でデータ駆動が容易となり、競争変数の変化(時間の経済等)、産業構造の変化(サービス化、産業融合や組み換え等)、社会構造の変化(エコーチェンバーやデジタルレーニズム等)などが進んだと言われている。そういう点ではやはり前回触れた波動論ではAIは技術革新の波であるだけでなくそれ以外の波とも言えると思う。

一方で現在に至るまで「機能飢餓」が消滅する毎に成長市場がシフトし、勝ち組が消滅するのを目の当たりにしてきた。嘗て様々な人々がベンチマークとしてきたNokiaがなくなるとはやはり驚きであった。商売柄、市場が成熟するたびに専門領域を変えていかなくてはならないのはやや厄介であるがそれはそれで色々経験できて面白い。ラスベガスの花形イベントもコムデックス(PC)→インターロップ(ネットワーク)→CES(デジタル家電、最近は車)と移り変わってきた。

AIは進化するために大量、かつ質の良いデータ(「データの質」については色々考え中)が必要となるが、このことは「機能飢餓」をリブートすることを通じて技術革新に大きなインパクトを与えると思う。基本的に今まではデジタル機器の使い手は人間であり、人間の要求する機能や性能を超えると「機能飢餓」が消滅(「機能飽和」)してきた。いわば人間のイライラ、不満が解消されるだけのパフォーマンスを提供できれば「機能飢餓」は解消されてきたと言える(「日本人は不満に強く、不安に弱い」という言葉は会社の大先輩の言であるが、これがAIを考える上でどのような意味を持つのかは別途よく考えようと思う)。しかし、AIが人間の代わりに認知、判断する場面が増えてきたことに伴い、「機能飢餓」における人間の認知能力という射程は意味をなさなくなった。現在販売されている液晶テレビの上位機種は8K(7,680×4,320:3,317万7,600画素)であるが、人間の目の実効上の解像度は700-1000万画素程度と言われているので既に人間のそれを上回っている(勿論、解像度だけで比較できるわけではないし、脳の認知のメカニズム等も考慮する必要があるだろうが)。イメージセンサの性能は継続して向上しているが、人間が見ることだけが前提ではなくAIに対するインプットのためのデータ獲得に向けセンサとしては「機能飢餓」な状態にある。性能向上に対するニーズは(解像度だけでなくダイナミックレンジなど様々な指標やマルチモーダル対応なども含め)続くと思われる。AIが外挿を不得手とし、内挿が中心である限りはどこかで「機能飽和」を迎えるかもしれないが、現在主流のAIのベースにあるコネクショニズム帰納アブダクションに近いことを考えるとインプットの質や量に対する「機能飢餓」は範囲や対象を変えて(広げて)継続するのか、もしくは所詮はGIGO(Garbage in, garbage out)なのでそんなことは無いのか、何れにしてもAIと「機能飢餓」をキーワードに色々と妄想は膨らんで面白い(笑)。