止揚、コペンハーゲン解釈、『ロックで独立する方法』

先日、会社の先輩と欧州のデータ基盤や標準化の動向に関する議論をしている際に、通説・多数説(博識な会社の後輩から有力説というものもあるがそれは海外の文献には出て来ない日本独特の考え方のようであると教えてもらった)の話しになった(小生から話しを振っただけなのだが、20年前に亡くなった部長をはじめ仕事だけでなく学問の先生的な先輩がいるのはとてもありがたいことである)。欧州は(米国も同様かと思うが、欧州の方がその傾向は強いようである)、「より良い社会」に向けて常に発展し続けるということが根本にあり、どれだけ時間がかかって、非効率だとしてもDistributed Systemでやっていくというのが根付いている、と言うか「これしかないし、今までこれでやってうまく行ってきた」というある種の割り切りがあるような気がする。解析学のアナロジーで行けば「収束」「振動」「発散」の何れかの極限となるであろうが、「収束」はしないまでも「振動」(これが所謂「止揚」であろう、正確には螺旋階段を登るので単純な「振動」ではないが)にも分岐せず「発散」してしまい、複数の説が乱立して収拾がつかなくなり無秩序状態になることも考えられるが、自然科学ではないのでそうはならないという算段があるのかもしれない。入社したての新人研修の際、毎週書籍を読んでレポートを提出するという課題があり、野口悠紀雄の『バブルの経済学』(バブルの経済学―日本経済に何が起こったのか | 野口 悠紀雄 |本 | 通販 | Amazon)について書き、資産の期待値が増加し続けることはありえず無限等比級数の和はどこかで「収束」するはずで「発散」することはあり得ないのでバブルは不合理であると書いたら、「あなたの考察には「収束」と「発散」しかなく、「振動」の条件分岐が抜けている」と添削が返ってきて、数学的な説明と経済学的な説明を丁寧につけてくれていたことを思い出す。まあ、無尽蔵にお金があるわけではないので資産の期待値が無限大に発散するはずはないなど人間社会では「発散」は余り考える意味がないというのは当たり前だが、数学に頼り過ぎだったと反省している(笑)(昔、部長に「理科系の人間は思い込みが激しいのと(それはそれで良いことだが)、数学に頼りすぎるので論理的でない」とよく言われた)。

加藤周一が「今=ここ」文化で指摘する関心が時間的にも空間的にも近傍に集中しているということや幕藩体制の長子への家督相続に代表される何よりも秩序を乱さないことを大切にするということなどが特徴的な日本とは大分異なると感じる(勿論、別に良い悪いの問題ではなく)。大分前に読んだ『鑑の近代』(Amazon - 鑑の近代: 「法の支配」をめぐる日本と中国 | 古賀 勝次郎 |本 | 通販)にあった「儒家(徳治)が強く法家(法治)が根付かなかった中国が近代化に遅れ儒家の影響力がそこまで強くなかった日本が近代化に成功した」という趣旨の指摘や『法哲学講義』(Amazon - 法哲学講義 (筑摩選書) | 森村 進 |本 | 通販)にあった「中国をはじめとするアジアには基本的に刑法しか存在しない」という趣旨の指摘はとても参考になると感じる。極端な言い方をすると縦の関係が強い東洋と横の関係(私人間関係)も強い西洋ということが背景にあるのかもしれない。まあ、単なる妄想であるが。なお、先日の会社での先輩との議論では欧州であれだけデータ基盤や標準に関し日々大量にドキュメントが出てくる(GAIA-XやIDSに関する文献分析をRRIロボット革命イニシアティブ|トップページ (jmfrri.gr.jp))の分科会で行っているのだがドキュメントの海に溺れそうである)背景には、「低学歴社会」である日本との彼我の差があるのではないかとの指摘を受けたが、小生学卒で低学歴側なのでそれについては何も発言する資格がない(笑)。

ところで、先日も書いたように規範科学である法学と形式科学である数学はよく似ているなと勝手に思っているのだが、そこで感じる、というよりも今まで知らなかった世界(法学は学生時代に勉強していないし、純粋数学は学生時代からのコンプレックスの塊だし、という意味で(笑))からの気づきとして思うのは、観念論の重要性である。コロナ禍が始まったぐらいのタイミングで読んだ『実在とは何か』(実在とは何か ――量子力学に残された究極の問い (単行本) | アダム・ベッカー, 吉田 三知世 |本 | 通販 - Amazon.co.jp)が非常に面白かった。中身は所謂量子力学の解釈論に関するもので、ボーア・アインシュタイン論争に始まり、ベルの不等式の破れ、多世界解釈などについての本である(個人的にはパイロット波を初めて提唱したのがアハラノフ=ボーム効果で有名なアハラノフだというのは知らなかった)。昔読んだ(内容的にも数学的にも難しすぎて3分の1も理解できなかった)『不完全性・非局所性・実在主義―量子力学の哲学序説』(Amazon - 不完全性・非局所性・実在主義―量子力学の哲学序説 | マイケル・L.G. レッドヘッド, Redhead,Michael L.G., 寿郎, 石垣 |本 | 通販)と比べ遥かに読みやすく、楽しめた。やはり最も面白いと思うのはボーアとアインシュタインの論争でアインシュタイン論理実証主義から始まる実証主義の流れを徹底的に批判していることである(アインシュタイン相対性理論を構築するにあたってマッハの影響を受けているはずなのでそういうことを言うこと自体が興味深い)。観念論無しでモデルは作れないということを分子運動論の事例などをあげながら指摘している。ボーアとの論争に挑むためにEPR論文を執筆し、結果的にベルの不等式が破れていることが実証され、今の量子コンピュータのブームにつながっているところがまさに「止揚」であり「より良い社会に向けた発展」なのだなと思う(途中、実験で実証が入っているところが自然科学の特徴というか、強いところだと思うが)。小生が学生時代はコペンハーゲン解釈が一般的で多世界解釈は出始めだったと記憶しているが、人間原理も流行っていた(フジテレビの深夜番組の『アインシュタインTV』でも取り上げられていた)。流石に人間原理、それも強い人間原理まで行くと着いて行かれないが。小生学生時代に好きだったベスト3は量子力学解析力学離散数学だったのだが、解析力学離散数学が圧倒的に美しいところに惹かれたのに対して量子力学はほぼ哲学だったところに惹かれたのが理由であった。ここらへんの発言は物理学帝国主義者丸出しである(笑)。

実験ができず実証主義と観念論の組合せがなかなかに難しい人文社会科学(経済学はその点でほぼ物理だと思う、ただ、経済学は物理学の劣化版と発言して以前にものすごく怒られたことがあるので気をつけたい)では止揚するためにオリジナリティの追求が重要になるのだと思うが、美術や音楽などが参考になるように感じる(アバンギャルドに憧れると言うのはおじさんになってしまった今でもあるし)。その点で完全に個人的な意見だが忌野清志郎の『ロックで独立する方法』(ロックで独立する方法 (新潮文庫) | 清志郎, 忌野 |本 | 通販 - Amazon.co.jp)はお薦めである(新潮文庫で文庫化されている)。ロックが市民権を得た現在はかえって若い人はオリジナルを追求することが難しくなったという指摘や「成功する方法」ではなく「独立する方法」というタイトルにした理由など、めちゃくちゃ面白いし、かっこいいな~と感じる。