美術と法学からの気づき

若手アーティストの方々とお話しする機会が多いにも関わらず、圧倒的にドメイン知識が不足していることを痛感し美術史についての本を色々読み漁っている。鉄板の高階秀爾の本はどれも面白く、村上隆の本(『芸術起業論』:芸術起業論 (幻冬舎文庫) | 村上 隆 |本 | 通販 | Amazon)も勉強なった。人工知能学会の企画セッション(2023年度人工知能学会全国大会 企画セッション「アートにおいても敗北しつつある人間〜人の美意識もAIにハックされるのか?〜」 - YouTube)も非常に興味深かった。美術史を少し勉強すると形態と色彩、保守と前衛の行き来の歴史であることがよく分かる。であるが故に今までの歴史やルールに対する深い理解が必須であり、その文脈に基づいて何を新しいものとして追加するかが重要であるという『芸術起業論』の指摘は頭の中を整理する上でとても参考になった。法学を勉強し始めた際に「通説」「多数説」という言葉は個人的にとても新鮮だった。自然科学の場合は、真理は人間に発見される前から自然界に存在しているという実在説的な発想が強いよう思うため(これはただ単に自分の勉強不足であったことにいくつかの書籍を読んで気づいたが)、人々がどう考えているか、コンセンサスなどに依拠することなく正しい答えが存在すると考えていたからである。芸術や技術、所謂「人の技」の意であるアートな世界ではコンセンサス、別の言葉で言うと説得が重要であるということであり、人工知能(Artificial intelligenceも接頭語にartがある)の評価関数と通じるという人工知能学会の企画セッションの内容も非常に刺激的だった。同セッションのなかの法学も説得の技でありアートであるという内容にもとても納得させられたとともに、自然法はどう考えれば良いのだろう?ということにも興味を持った。自然法小平邦彦が『怠け数学者の記』(怠け数学者の記 (岩波現代文庫) | 小平 邦彦 |本 | 通販 | Amazon)で書いている「数学的実在」という考えと通じると(自然法は言わば「法的実在」?)個人的に考えている。法学は社会科学の中では(法と経済学等の一部を除き)最も数式を用いない学問だと思うが、その思考方法は極めて純粋数学的であり(と勝手に感じており)、数学に近いのかもしれない。

高階秀爾の『絵の言葉』(絵の言葉 | 小松左京、高階秀爾 |本 | 通販 | Amazon)は小松左京との対談集であり読みやすいだけでなく極めて多くの気づきを与えてくれた(最初は対談集だからと気楽に読んでいたのだが途中で最初まで引き返し付箋紙片手に集中して読んだ)。その中に「真理というものはそれ自体認識されるものとして存在するという考え方が出てくるのは、西洋でも非常に近代のもので、主流はなんといっても説得ですね。」という記述があり目から鱗が落ちた。今思えば以前に読んだ『「蓋然性」の探求――古代の推論術から確率論の誕生まで』(「蓋然性」の探求――古代の推論術から確率論の誕生まで | ジェームズ・フランクリン, 南條郁子 | 数学 | Kindleストア | Amazon)にも、蓋然性には「事実的蓋然性」と「論理的蓋然性」があり、パスカルフェルマーのやり取りで確率という概念が出てくる以前から中世に「論理的蓋然性」が法学において発達していた(裁判における証拠の確からしさなど)という内容が書いてあったのに、それに気づけなかった自分の頭の悪さを痛感した次第である。

前述の人工知能学会には美術家の中ザワヒデキ氏による写真の登場と生成AIの登場の類似性についての講演もあり極めて気づきが多かった。曰く、写真の登場によりシャッター一発で写実的な画像が得られるようになり、絵画の写実性(所謂上手い絵を描く技術)の価値がなくなり、抽象芸術が登場したが、同様のことがプロンプト一発で画像が得られるようになると再度起こると予想されるという内容(それ以外にも様々な論点が提起されており、この人めちゃくちゃ頭いいなという印象を持った)が語られていた。コンサルティング業界もプロンプトで簡易に出来るようになる領域は淘汰されて行き、純粋化が進むと戦略コンサルの価値が高まるということなのだろうか?などと妄想している。AIの文脈では法学との接点が強いため(自分が大学で法学を勉強していることもあり)色々と読んでいるのだが、解釈のためには言語哲学が重要だという様々な文献(例えば、https://www.jstage.jst.go.jp/article/pjsai/JSAI2020/0/JSAI2020_3N1OS11a01/_pdf)に触発されウィトゲンシュタインにトライしているが、当然ことながら『論理哲学論考』は何を言っているかさっぱり理解出来ず(此れを第一次世界大戦塹壕の中で書いたというのは驚愕しかない)、入門書も難易度が高いので苦戦中である。大学時代に読んで全く意味が分からなかったキェルケゴールの『死に至る病死に至る病 (岩波文庫) | キェルケゴール, 信治, 斎藤 |本 | 通販 | Amazon)を思い出した。

不作為の罪                    -投資なきROA向上は製造業の競争力を低下させた-

円安、インフレの影響を実感する機会が増えてきた。最も感じるのは昼食のメニューコストが上がったことであろう。円安に伴い製造業の国内回帰の議論が盛んになっているが、労働人口減少、熟練散逸などを勘案すると現実的には相当に困難であろう。エレクトロニクスではすでに国内にマザー工場がなくなってから久しく、水平分業に大きく振った弊害は大きい。日本の経常収支は黒字であるが嘗てその中心であった貿易収支は赤字に陥り、所得収支がそれをカバーしている。いわば過去の海外投資からのリターンでなんとか帳尻を合わせているわけであるが、これは持続可能ではあるまい。日本の製造業の位置づけは嘗てと比べて低下しているもののGDP、ならびに就業者数の約2割を占めており基幹産業であることに変わりはない。ちょっと気になったので法人企業統計でデータを少し見てみた(以下のデータは全て法人企業統計が出所である)。

日本の製造業(全規模)の売上と営業利益率(OPM:Operating Profit Margin)の長期の推移は以下のとおりである。この図は見慣れている方も多いと思うが、失われた30年でトップラインは伸びておらず、収益性のボラティリティは増大している。設備投資(ソフトウェアを除く設備投資)を見るとバブル期のピークから急減し投資しない体質が定着しているのが分かる。なお、設備投資効率(付加価値額÷有形固定資産)は80年代前半から大きく低下し、2000年以降横這いとなっている。

 

では、設備投資に回らずキャッシュはどこに向かったかというと、よく言われているように内部留保と株主還元に回っている。今週参加したRIETIのセミナーでBNPパリバ証券の河野さんが日本はリスクを取らず危機に備えて内部留保を蓄えた経営者が生き残り、今回のコロナでそれが更に定着することを懸念しているという趣旨の発言をされていたが非常に納得してしまった。コーポレートファイナンスの授業では、会社=キャッシュマシン(お金を儲ける投資運用手段)である、なぜなら、お金には機会損失コストが存在するから会社は価値を創造しなければならない、と教えられる。この考え方に基づくと、現在の日本の製造業は投資家からは事業開発による価値創出を(キャッシュマシンとして)期待されていないということであろうか(同じくコーポレートファイナンスの授業で自社株買いは現在の株価が低すぎると投資家にシグナリングを送るために使われることもあれば将来の成長に向けた事業機会を見つけられない為に投資家にお金を返すために使われることもあると教えられるが、恐らく現在の日本の製造業の配当拡大は後者の側面が強いのではないだろうか)。

 

設備投資とROAの関係を見るときれいな負の相関関係が見られる(加速度原理によると企業の所得増分が投資額を決定するとされるが、一方で設備投資削減によるコストカットと資産圧縮を通じてROAを改善させる効果も考えられるので因果関係は不明)。下記の左図を見るとプラザ合意前後で動態が異なることが分かる。

 

そこでプラザ合意後からの設備投資とROAの推移を見てみると、設備投資減少に少し遅れる形でROAが改善するサイクルが繰り返されていることが見て取れる。そしてROAは着実に右肩下がりである。すなわち、リセッションの度に投資を抑えてROAを回復させているが、投資無きROA向上は製造業の競争力を低下させていることが推測される。

 

更に分かりやすくするために年代別でROA因数分解ROA=OPM×総資本回転率)した(所謂DuPont分析)。なお、1960年代から10年単位で各指標の算術平均を取った。1980年代までと1990年代以降では異なる動きをしていることが分かる。高度経済成長期からプラザ合意があった1980年代までは生産性の増大(総資本回転率の上昇)と輸出拡大(市場拡大によりOPMは減少)が見て取れる。一方で1990年代以降はOPMが大きく変わらない中、生産性が低下(総資本回転率の減少)していることが見て取れる。これは、投資をしていないため生産性が低下(イノベーションの枯渇、設備の老朽化)しているということではないであろうか。

 

プラザ合意までは高度経済成長期(~1975年頃)終了後も製造業は旺盛な投資を背景とした生産性向上で輸出増大(プラザ合意以降の円高を契機にFDI増大により日本への還元率は低下)したが、失われた30年で投資していないことから生産性が低下し縮小均衡へ陥り、イノベーションが生まれない業界となってしまったことが懸念される。不作為の罪の疑義である。

アーティストとの対話からの気付き(マネジメントの2つのアプローチ)

最近、若手アーティストの方々と集中して対話させて頂く機会が複数あり、非常に大きな気付きを得られたのでそれをご紹介したい。自分は主にビジネスの世界の住人なのでそれ以外の世界の人々と会話をすると多くの発見があると常に感じる。入社当初から出来る限り仕事とは別の世界に触れるようにしており(業務上多くの人と触れ合える点では恵まれていると思うが、それでも意識しないと世界が狭くなってしまうし、そもそも生業の価値は異なる専門性を架橋することであると思うので)、業務とは別に科学や工学の世界の人々と会話をする機会があるが、非常に多くのことを教えてもらえる。以前にご紹介したJOEM(有機エレクトロニクス材料研究会(JOEM) -トップページ (organic-electronics.or.jp)入社当初に参加させていただけたのは本当に幸運であった)の関係で明星大学の古川研究室を訪問した際(マクスウェルの悪魔、あるいは情報熱力学とセレンディピティ、そして通説・多数説 - 気づきのメモ (hatenablog.com))もそうであったし、研究会等ではいつも新たな発見がある。理学と工学では違いがあると思うが、科学の世界はベースに”Why?”が存在し、何方かというと“How?”の色彩が強いビジネスの世界とは異なる思考の仕方、アプローチを取るところが違いであり面白いところであろう。製造業のR&D機能にも、研究(R)と開発(D)の組合せや研究の位置づけ(予定調和で既存のHowやWhatを改良する色彩が強い「先々行開発」と技術や市場の不確実性に挑み新たな原理(Why)や材料(What)を発見する色彩が強い「不確実性へのチャレンジとしての研究」など)の仕方などがあるのでもちろん程度問題ではあるが。何方かというと数理物理系はHowのアプローチが多く生命科学系はWhatの要素も強くなる(典型例が「生命とは何か」(生命とは何か: 物理的にみた生細胞 (岩波文庫) | シュレーディンガー, Schr¨odinger,Erwin, 小天, 岡, 恭夫, 鎮目 |本 | 通販 | Amazon)であろう)ような気もするが、システムや複雑系になると定義が重要になるということであろうか?

それに対してアートの世界は”What”の色彩が強いと感じる。そもそもオリジナリティを追求する面が他の世界よりも強いのでそれはそうだろうというのもあるのだが、アプローチの仕方がとても参考になる。どの世界でもいきなりオリジナルなものを作れる人間は一部の超天才を除きほぼいないので模倣から入り、守破離を介して、止揚するのであり、程度問題かも知れないが、その時のアプローチの仕方や考え方が大きく異なると感じる。例えば、作品と鑑賞者との間の対話を重視し、そこでの化学反応による価値の創出が重要であるという基本的な考え方が存在することである。作品を鑑賞者が作者の意図とは異なる形で解釈し、その解釈のズレにより新たな価値が生まれることを期待する側面が強い。ビジネスの世界でもある製品が開発者の意図とは異なる使われ方をするということはあるが、一般的にはマーケットインのアプローチで商品企画を行うので意図的に解釈のズレを狙うことは少ないように思う(もちろんキャリア形成における計画的偶発性理論などもあるが)。アーティストの人々と話していて気付いたこととして、それが故に作品はそれを生んだ作者とは別人格という発想が強いということである。ビジネスの世界では「こうしたい」「こういう社会課題を解決するために自社は存在する」という意志や志が重視されるのとは異なるということに気付かされた。形式的には企業も社会の公器であり、上場すれば所有権は広く株主に開放されるが、実質的にその企業が成長するか否かは企業のリーダーや従業員の強い意志にかかっており、であるが故に最近ではパーパスが重視されているように感じる(会社に対するオーナーシップが強すぎることからくるサクセッションプランの難しさなどの問題は存在するが、客観と主観(意志)のバランスという点では後者の重要性が強いように感じる)。それに対してアートの世界では一度作品として世の中に生み出されて以降はあくまで作品は作者とは別人格であり、鑑賞者とのやり取りの中で自律的に成長していくという考えが強いようである。それを感じたのはアーティストの人々と話していて主語を自分(作者)ではなく、あくまで作品として語ることに気付いたときである。言ってみれば親子関係や子育てが参考になるということなのではないかと強く感じた。

先日米国で活躍されているソフトウェアエンジニアの方にお話しをお伺いした際に、プロジェクトマネジメントとプロダクトマネジメントの違いについて説明してもらった。ものづくりにはその国の文化など背景が反映されているという話しから始まり、日本は(弊社の様なSIerが典型だが)プロジェクトマネジメントの色彩が強く、米国はプロダクトマネジメントの要素が大きいというお話しを頂いた。すなわち、日本は半年とか1年とか特定期間に集中してシステムを作り、カットオーバーした後は次世代システムの更新のタイミングで数年後に当該システムや顧客との関係性が再度発生するが、米国の場合はソフトエアやシステムとの関係が継続し、常に改良改善が続いているということであり、子育てのようなものであるとのことであった。これは先程の作者と作品の関係とはまた異なるのであろうが、また面白い視点であると感じた次第である。

法哲学、批判的合理主義、フランケンシュタイン

すっかり日が短くなり夕方には虫の音も聞かれるようになった。昨日は20年前に亡くなった部長の誕生日であったことを先程ふと思い出した。当時はワークライフバランスなど面倒くさいことは言われなかったので、ずっと一緒でよく夜中から飲みに行き仕事や学問的な疑問に関して色々と議論し、教えてもらった。昔、『科学の終焉』(科学の終焉(おわり) (徳間文庫) | ジョン ホーガン, 康隆, 筒井, 薫, 竹内 |本 | 通販 | Amazon)という本が出たときには銀座で朝まで議論したことを思い出す。めちゃくちゃ楽しかった思い出である。

さて、この夏は7月末に参加した日本アスペンの研修の影響もあり古典を大分読み、その影響というわけではないが、哲学系や文学系の本もいくつか読んだ。なかでも面白かったものをいくつかご紹介したい。はじめに『法哲学法哲学の対話』(法哲学と法哲学の対話 | 安藤 馨, 大屋 雄裕 |本 | 通販 | Amazon)である。此方は有名な本なので読まれた方も多いかもしれないが、遅ればせながら先日読了した。アマゾンで購入したのは2019年なのだが、最初の章を読み終えた後暫く(と言うには長いが)積読に入りこの夏に再度読み始めた。再読しだすとあまりの面白さに他の本を読むのが全て止まった。法学教室に連載された特集が書籍化されたものであり、テーマごとの対論形式であるため読みやすい。とは言え小生にとっては内容が可也高度なので1テーマ読むのに2時間以上掛かった。個人的に面白かったのは、団体の実在性と方法論的個人主義に関してのもの、不能犯と未遂犯、ならびに新派刑法学に関してのもの、憲法最高法規性に関してもの、である。少しだけ内容について紹介すると(小生の理解が追いついておらず誤りがある可能性も大いにありますので悪しからず)、団体が擬制か実在か、所謂法人擬制説と法人実在説の争いについての議論から始まり、細胞の集塊であり(所謂テセウスの船)、時間的切片としての行為から構成される個人も団体であるという指摘を経て、団体のみが存在するという団体の実在性が主張され、集合論を用いて(自己が自己の成員であるような自己再帰的なノードも導入しつつ)理論武装される。具体的な事例として、相続が挙げられ、被相続人と相続人たちが同一である(被相続人が自分自身という団体から離脱して相続人が新たに自発的にその団体の成員となるという団体内部での成員の変動である)ことを指摘している。これを受けて、統一性の観点からその後対論が提示される。ということで大分観念的な議論が続くため(相続などの法的な例示もあるが)脳みそが腫れて読み進むのに時間がかかるのだが、要素還元論創発性、SoS(System of Systems)などは理学、工学とも通底する部分が多く非常に参考になった。

また、この本と後半少し並走するかたちでポパー反証可能性原理に代表される批判的合理主義についての本である『批判的合理主義の思想』(批判的合理主義の思想 (ポイエーシス叢書 44) | 蔭山 泰之 |本 | 通販 | Amazon)を読んだ。著者は日本IBMのSEの方であり、ものすごく博識ですごいの一言である。元々はウェブ上にあった『ポパーとクーン』(Yasuyuki Kageyama (keio.ac.jp))というページを見て著者のことを知り、早速アマゾンで購入したのだが(最後の1冊だったので危なかった)大当たりであった。実証主義と観念論の相克は個人的にずっと関心を持っているテーマであるが(コペンハーゲン解釈を最後まで受け入れず実在論にこだわったアインシュタインや結果的に破れていたベルの不等式等)、科学と形而上学を分かつ基準である反証主義や批判合理主義をきちんと調べたことがなかったのでものすごく勉強になった。帰納の原理、帰納的一般化は成り立たず理論から演繹的に論理を導出することの重要性を再認識するとともに(我々の業界が多用するなんとかのひとつ覚えのケーススタディーについては猛省すべきであろう、事例は分かりやすさの装置としては意味があるがそれのみをベースに背景にある理論を意識せずに論理展開する人間はアホである)、可謬性を前提に反証を新たな理論的な発展可能性のきっかけとすることの意義について改めて思いを強くした(内挿が正当化主義、外挿が批判主義とすると、やはり外挿にこそ価値があるということだと思う)。エンジニアリング的な観点からも示唆が多く、ソフトウェアにバグが見つかった(反証された)としてもそれを破棄するわけではなく「Windowsのように、はじめは欠陥だらけで見向きもされなかったプロダクトでも、捨てずに改良を重ねた結果、大成功した例もある」という指摘は、ものづくりについて考察する際にはやはり哲学に対する理解があった方が良いということだと強く感じた。

この夏は所謂文学系の作品も久しぶりにいくつか読んだ。中原中也は学生時代に大分嵌ったが久しぶりに詩集(中原中也詩集 (岩波文庫) | 中原 中也, 昇平, 大岡 |本 | 通販 | Amazon)を取り出して読むとともに中原中也に関する岩波新書中原中也――沈黙の音楽 (岩波新書) | 佐々木 幹郎 |本 | 通販 | Amazon)も読んだ。「汚れつちまつた悲しみに」はとても有名だが同じく有名な「サーカス」もやはりいいな~と感じた。「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」は国語の教科書の中でも「山のあなた」と並んで強烈に記憶に残っている。また、気分転換にNHKオンデマンドの100分de名著で見た「フランケンシュタイン」がものすごく面白く、『批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義』(批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書) | 廣野 由美子 |本 | 通販 | Amazon)と合わせ小説(フランケンシュタイン (光文社古典新訳文庫) | メアリー シェリー, Shelley,Mary, 章夫, 小林 |本 | 通販 | Amazon)も読んでみたが、あまりに面白く夢中になった。これを19才で書いたメアリー・シェリーはやはり天才だと痛感する。小生昔からバイロンが好きなこともあり、その友人である詩人シェリーの奥さんであるメアリー・シェリーは学生時代から知っていたが、あくまでシェリー夫人としての認識であった。『嵐が丘』を書いたエミリー・ブロンテも天才だと思うのだが(『嵐が丘』には若い頃にとても嵌まり新潮文庫の旧訳、新訳、岩波文庫を読んだ)、ふたりとも10代後半から20代で書いているのは本当にすごいと思う。ランボーやレーモン・ラディゲ、それこそ16歳で長谷川泰子と同棲した中原中也なども皆早熟だが。メアリー・シェリーが『フランケンシュタイン』を執筆したきっかけは有名な「ディオダティ荘の怪奇談義」だが(高校時代にそれを映画にした『ゴシック』(Gothic)(映画 ゴシック (1986)について 映画データベース - allcinema)を観たことを強烈に覚えている)、バイロンシェリー夫妻は共に人間関係がぐちゃぐちゃなので狂気の中から生まれた作品なのだと思う。

夏休みの読書感想文のようになってしまった(笑)

古典に学ぶ

先日、日本アスペン研究所という団体の古典に学ぶリーダシップのセミナーに参加し、とても多くの気付きを得られた。日本と海外、西洋と東洋、古今の古典を読んで議論の中から学びを得るというセミナーであり、結構しっかり事前準備をしないと議論に着いて行かれない内容となっている。とても残念だったのは新型コロナ陽性者が急増しているため急遽オンライン開催になってしまったことだ。宿泊形式であればメンバやモデレータ、リソースパーソンの方々と更に深い議論ができたであろう。夏目漱石森鴎外などから始まって、アリストテレスパスカル、カントなど西洋の哲学者、源氏物語平家物語など日本人としては本来教養として持っていなければならない内容(そして昔から古文が嫌いな小生は全くもっていない教養)など非常に幅広く、そもそも文献を読むこと自体が非常に面白かった。議論の中で他人の意見を聞くと想像もしなかった視点が提起され、とても盛り上がった。

個人的に岩波文庫の黄色版は絶対に積極的には読まないので(白版まではケルゼンやカール・シュミット、J.S.ミルなどいくつか読んだが)よい機会であった。但し、やはり光源氏には全く共感できず、議論の際に「太宰治と同じでただのダメ人間だが、所謂今で言う超イケメンであり、ただのやっかみなのかもしれない」と発言したら爆笑されてしまった。しかし、個人的に歴史上好きな3人物である、Evariste Galois、W.A.Mozart、Geroge Gordon Byronは何れもダメ人間なのでやはりダメ人間に惹かれるというのは女性に限らずあるのだなと思い返した。個人的に特に面白かったのは、オルテガの『大衆の反逆』(大衆の反逆 (中公クラシックス) | オルテガ, Gasset,Jos´e Ortega y, 和夫, 寺田 |本 | 通販 | Amazon)、孟子の『孟子』(孟子 上 (岩波文庫) | 勝人, 小林 |本 | 通販 | Amazon)、鈴木大拙の『東洋的な見方』(新編 東洋的な見方 (岩波文庫) | 鈴木 大拙, 閑照, 上田 |本 | 通販 | Amazon)である。恥ずかしながら『大衆の反逆』は今回初めて読んだのだが(テキストは一部のみ掲載なので書籍を購入)、現在に通じるところが非常に多いと感じるし、何よりも自分の価値観に対する改めての内省になった。ちょっと前に山口真由さんの『リベラルという病』(リベラルという病 (新潮新書) | 山口 真由 |本 | 通販 | Amazon)を読み(この本も非常に面白いのでお薦めである)、リベラルと保守について考えることが多かったのでその観点からも非常に参考になった。文体も比喩が絶妙で(ああいう文章が書けると教養人的でかっこいいと思う)とても読みやすいと感じた。また、システムとして属人性が高い儒教的な考え方に余り共感できない(参照:『鑑の近代』鑑の近代: 「法の支配」をめぐる日本と中国 | 古賀 勝次郎 |本 | 通販 | Amazon)こともあり、『孟子』も恥ずかしながら今回初めて読んだのだが、やはり人間は社会的動物なのでリーダシップと徳はセットでないと組織が混乱し、社会全体が没落すると再認識した。何れの文献も書かれていることを自分で実行しないと全く意味がないので、リードザセルフが重要であるということだと強く感じた。古典と言われる文献の特徴はいくつかあると思うが、個人的にはやはり解釈の多様性や著者や自分との対話の双方向性が他の書籍に比べて半端なく広いということだと思う。先日、芸術家の方々と密に議論させて頂く機会があり、その際の大きな気付きであったことは、芸術家は自分の作品は一旦作品となったらそれ自体が他と相互作用して行くものだという発想が強いということである。ビジネスの世界にいると、自身の主体性を重視する傾向が強いと思うが、あくまで自身とは切り離された客体として作品を捉え、作品自身が主体的に相互作用していくことを重視する発想は非常に新鮮であった。作品と鑑賞者の相互作用で化学反応が起こり新しい視点が生まれるというのはよく言われることであるが、そこまで徹底するのかと驚いた。

これとも少し関連するが鈴井大拙(恥ずかしながら今回のセミナーで初めて知ったのだが)の『東洋的な見方』は最も面白かった文献である(セミナー前の予習で読んだ際にあまりの面白さに速攻で岩波文庫を購入した)。エッセイ集なので読みやすいのだが、何より驚きなのは筆者が90歳を過ぎて執筆したということである(因みにJ.S.ミルもテキストに入っており、個人的に昔から好きな思想家だが、友人の奥さんを好きになり三角関係の末に結婚したと言うのは知らなかった。ジョージ・ハリスンエリック・クラプトン、パティー・ボイドみたいだと何故だかちょっとうれしくなってしまった、作品だけでなく著者の人生について学ぶのも非常に面白い)。禅についてのエッセイで言語化できない知識、知見について書かれており、西洋は「光あれ」以降の二元から始まるが、東洋は渾然一体の混沌に最大の関心を示すという趣旨の内容は非常に感銘を受けた。エッセイの中にある「色即是空、空即是色」は正にそれだが、これは量子力学的真空を連想させるし、同じくエッセイにある「有限即無限」はε-δ論法と一緒だと感じた。岡潔ディラックが言うように「情緒」や「美」に対する感覚が自然科学には重要であり、それは「光あれ」の前に付いての感性なのだなと勝手に感動してしまった。ふと、先日の芸術家の方々との議論でもある程度体系化できる「デザイン」とそれが不可能な「ファインアート」と教育との関係で盛り上がったことを思い出した。

ということで、(大学時代に精神衛生上良くないと小説を読むのを止めたのだが、もうすっかり汚れちまつたので大丈夫だと思うし)この夏は少し古典を読んでみようと思う。

(主に企業の)研究開発に関する一考察(3) ~リニアモデルのその先に~

日本の研究開発はリニアモデルで大成功を収め、その後その成功の復讐に苦しんでいるのではないか、ということを前回書いた。戦後、日本は、技術リソースは外部を積極活用し、リニアモデルと傾斜生産で経済大国へと奇跡の成長を遂げるという大きな成功を経験した。もともと日本は職人を尊ぶ文化があり、ものづくり信仰が強いという土壌があったこともプラスに作用したのであろう。一方で、その問題点の指摘もあり、太平洋戦争時の零戦グラマンの違いなどが代表例であろう(ものつくり敗戦―「匠の呪縛」が日本を衰退させる (日経プレミアシリーズ) | 木村 英紀 |本 | 通販 | Amazon )。エレクトロニクスの領域では総合電機という、所謂コングロマリット形態が日本の特徴である(あった?)が、様々な経験をさせ人を育成し(ゼネラリストとスペシャリストの組合せ)、垂直統合モデルの強み(すり合わせ、安定した部材・リソース調達等)でレバレッジするという点では同業態は成長期にはプラスに作用したと言えよう。しかし、リニアモデルへの過度な最適化の弊害とポストリニアモデルの構築に失敗し、垂直統合でのリニアモデルの限界(異様に低い流動性、過度な分割損、意思決定の遅さ等)を超えられなかったこともまた事実であろう。日本の総合電機には「1億台以上、3年未満」の壁が存在する(ジャパンストライクゾーン - 若林秀樹アナリスト (circle-cross.com)という実証分析からの指摘はその証左であろう。

リニアモデルと言う研究開発のイノベーションプロセスの考え方が出てきた背景を調べてみると、ペニシリン、サルファ剤、DDTインシュリン放射線療法等いくつかの事例からの一般化が根拠となっており、大胆な仮定が前提に存在すると感じられる(ムーアの法則が元々数個しか無いプロットをトレンド延長して一般化されたのと同じような側面があると感じる)。リニアモデルという言葉が最初に使われたのは1945年にアナログコンピュータの研究者で当時政府の科学アドバイザーであったヴァネヴァー・ブッシュが提出した『科学―果てしなきフロンティア(Science: The Endless Frontier)』だそうである。彼は原子爆弾計画の推進者でもあったので科学分野に対する軍事予算拠出の主導者の一人という立場にあり、軍事応用のために基礎研究の充実を図ることを意図していたと推測される。すなわち、基礎研究と応用研究という二元論が存在するなかで、軍事との連携に基礎と応用が連動していることを明示し、"市場に乗らない"基礎研究をカバーすることの重要性を理論的に示したと言える。人材育成のための基礎研究ということも意識されていたようで基礎研究の人材面でのEXITの考え方を明確に示した点も注目される。一方で、フロンティアを開拓するのは連邦政府の役目であるという信念や当時米国の科学的知識の輸入元であったヨーロッパの衰退によりそれが期待できなくなっていたことからそれを米国内に内部化する必要があったという事情、更には終戦後も所謂スプートニク・ショックにより米国で基礎研究重視の流れが加速したこと、などが背景にあり、ある種特殊な事情が重なっていたと言えなくもない。誤解を恐れずに言うと、そもそもリニアモデルはそこまで一般的な理論かは結構怪しいと言えるのではないか?なお、此等の事情に関しては『アカデミック・キャピタリズムを超えて-アメリカの大学と科学研究の現在-』(アカデミック・キャピタリズムを超えて アメリカの大学と科学研究の現在 | 上山 隆大 |本 | 通販 | Amazonに詳しく書いてある(残念ながら同書も絶版のようである)。

リニアモデルは、過度な一般化によりブラックボックスな側面があると言ったら言い過ぎであろうか?所謂DuPontのナイロンのようなイノベーションをマネジメントすることは極めて困難であると考えられるし、イノベーションが起こる蓋然性が見えないので(そもそもイノベーションは予定調和からは生まれないと考えられるため「蓋然性」など語る段階で大いなる矛盾ではあるのだが)、結果的に財源問題となるのはある意味必然であろう(研究開発が進めば進むほど、物理限界に近づいていくので投下資本の多寡も指数関数的に増大していく)。以前に日本を代表する企業研究所のマネジメントの方が「物性物理のような基礎的な研究を民間企業が行うのはもう困難」とおっしゃっていたのが強く記憶に残っている。なお、今週国分寺にある某研究所の方々とご議論させていただいた際に、戦後の米国の日独に対する占領政策の違いがその後の両国の製造業の発展の違いに大きな影響を与えているのではないかというご指摘を頂き、目からウロコが落ちた思いだった(確かに戦後ドイツからはフォン・ブラウンをはじめ超一級の研究者・エンジニアが米国(と旧ソ連)に流出したが日本からはそのような流出は少なかったこともあり米国の占領政策に影響を与えたのかも知れない)。

なお、人材供給(人材育成)やリスクの最適単位への分解等とセットの場合にはリニアモデルが成功したケースは日本でも多いなど、リニアモデルをベースにイノベーションを駆動するための工夫が繰り返されたと考えられる。技術と一緒に人を中央研究所から事業部開発に異動させる仕組みや超LSI技術研究組合に代表される需要表現(Demand Articulation)と組合せた(リニアモデルとモード2のハイブリッドかも知れないが)産業政策的なオープンイノベーションなどは代表例であろう。

 

しかし、日米貿易摩擦が激化した際に米国からの政治的圧力により日本では産業政策が行われなくなり、一方で海外では米国、欧州、中国などで産業政策に基づくイノベーションの活発化が進んだ。昨今、ミッション志向の経済産業政策、など経済産業政策の新機軸に関する議論(20220512sinkijiku.pdf (m-ichiro-blog.net)が盛んになっているのは明るい兆しではないだろうか。

(主に企業の)研究開発に関する一考察(2) ~リニアモデルの限界と日本の低迷の原因~

個人的に現在、企業の研究開発機能や研究所の位置づけに関して最も関心がある。特に研究の位置づけに関する『ある研究』と『あるべき研究』の関係についてである。前者に関しては、『中央研究所の時代の終焉』(中央研究所の時代の終焉 | ローゼンブルーム,リチャード・S., スペンサー,ウィリアム・J., Rosenbloom,Richard S., Spencer,William J., 吉雄, 西村 |本 | 通販 | Amazon)のころから様々な議論や紆余曲折があった。同書が出版されたのが90年代後半で多くの日本企業で平成バブル崩壊の影響により研究開発予算の削減が本格化し、研究開発マネジメントのあり方に関するある種のブームが到来した時期だったのでタイミングが重なっていたのだと思う(なお、本書の原書タイトルは“Engine of Innovation”なので意訳し過ぎという指摘はそのとおりだとは思うが、当時の時代背景的にはマーケティング上最適なタイトルだったのだと思うし、実際この手の本としては結構話題になったと記憶している)。

同書をはじめ当時の問題提起は、中央研究所は企業の経営に貢献していたが環境が変化したことによりその機能が終了しつつあるという内容であったと記憶している。その前提には、①リニアモデルが機能していたこと、②日本の製造業の研究開発の競争力が高かったこと、がある。①に関しては、DuPontのナイロンやIBMトランジスターなど基礎的な材料科学、物性物理が巨大市場を創出する成果を生んだことや日本の高度経済成長が1950年代の東レによるDuPontからのナイロン特許の購入などが契機になっていたことから前提として成り立っていたと推測される。一方で②に関しては様々な意見が存在するのが実態であろう。DRAMで世界トップを取った経験やその後の日米半導体摩擦、米国でのトヨタ車が労働者にボコボコにされるショッキングな映像などジャパンバッシングが盛んになされたことから日本の製造業は国際的に高い競争力を持っていたという意見がある。一方で、日米貿易摩擦の本当の原因はレーガノミクスの失敗を覆い隠すことであり、そのためのスケープゴートとして仕組まれたものであるとの意見も存在する。すなわち、日本の製造業の研究開発力が本当に強かったかは疑問であるという指摘である(勿論、TPSなど世界がベンチマークしたイノベーションは存在し強かった部分もあるが、言われているほど強くなかったのではないかという意見であろうが)。しかし、その後のコンパックショックなどに代表されるように所謂モジュール型アーキテクチャが中心の領域では日本の研究開発力は必ずしも強くなかったという指摘が90年代後半から2000年代に多く出てきたように思う。『モジュール化』(モジュール化―新しい産業アーキテクチャの本質 (経済産業研究所・経済政策レビュー) | 昌彦, 青木, 晴彦, 安藤 |本 | 通販 | Amazon)も当時大分読まれた良書であろう(個人的にはモジュール化することで分散的にイノベーションが駆動しひとつがコケても代替はいくらでもあるのでオプション価値を享受できるという趣旨の指摘は当時目からウロコだったと記憶している)。日本の製造業の研究開発の競争力は本当に高かったのか?(前提②)に関する命題は議論が分かれるためなかなかに判断が難しいが、嘗て、ジャパン・アズ・ナンバーワンとまで言われた日本の競争力が低下した理由のひとつがイノベーションの枯渇であること(すなわち、企業の中央研究所の成果が事業としてEXITされてこなくなったこと)は確かに事実であろうと思われる(元々そこまで強くなかったとしても、その時以上に日本の製造業の国際競争力が下がり、研究開発力を示す指標が下がったのは確かなので、少なくとも相関はありそうである)。何故か?キャッチアップモデルの終了と中央研究所ブームの揺り戻しが原因として挙げられるのではないか?高度経済成長は原理的にいつまでも続くはずはないので、どこかで終了するはずであるが、その後それに対応できなかったと言うのはよくある指摘である。すなわち、三種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫、1950年代)、新三種の神器(カラーテレビ・クーラー・自動車、1960年代)に代表される耐久消費財が普及しそれらに対する需要が弱まるとともに都市への人口流入も弱まり供給面でも制約が出てくれば高度経済成長は必然的に終わるが、高度経済成長期に最適化された仕組み(戦時経済の仕組みが高度経済成長に上手く機能したということも事実であろう)のモーメンタムが余りにも大きく、年功序列・終身雇用、人材流動性の低さなどの制度が変えられなかったというものである(最近、本棚を整理していたら出てきた『経済システムの比較制度分析』(経済システムの比較制度分析 | 昌彦, 青木, 正寛, 奥野 |本 | 通販 | Amazon)を再読しているのだがやはり名著だと思う)。

そして、メインバンクとインサイダーによるコーポレートガバナンスに支えられた大企業中心の経済制度上の影響力を強くうけ様々な産業保護政策が打たれ、そしてそれが可決された結果特定業界が保護され、スキルの入替えの遅れや既存産業によるイノベーションの阻害により長期的な経済低迷とそれと相互作用するかたちでの企業のR&D現場の疲弊が進んだということがあるのではないか。一方で、平成バブルの時に特に顕著であったと感じるが、所謂「技術タダ乗り論」に対するコンプレックスもあり、科学技術政策の過度なリニアモデル信仰に支えられるかたちで中央研究所ブームが起こったが、その揺り戻しは大きく聖域であったR&Dのリストラ(これが本格化したのはもう少しあとになってからであるが)やそこまで行かなくても技術流出(韓国企業の技術顧問の問題等)、過度に予定調和な研究開発マネジメント、経営と研究開発のギャップ(経営からすると研究所は何をやっているか良く分からないがPhDを持っている人間(下手をすれば先輩)に口出ししづらい、研究所からすると研究をやったことがない人間に研究開発マネジメントは出来ないだろうから面従腹背など)が続いたということもあるのではないか。

といったところで、また、少し長くなってきたため一旦この辺までとし、リニアモデルとポストリニアモデルの問題点などについて(本来これについて整理するつもりだったのだが辿り着けず)、また自分の頭の整理のためのメモを時間を置いて整理しようと思う。