古典に学ぶ

先日、日本アスペン研究所という団体の古典に学ぶリーダシップのセミナーに参加し、とても多くの気付きを得られた。日本と海外、西洋と東洋、古今の古典を読んで議論の中から学びを得るというセミナーであり、結構しっかり事前準備をしないと議論に着いて行かれない内容となっている。とても残念だったのは新型コロナ陽性者が急増しているため急遽オンライン開催になってしまったことだ。宿泊形式であればメンバやモデレータ、リソースパーソンの方々と更に深い議論ができたであろう。夏目漱石森鴎外などから始まって、アリストテレスパスカル、カントなど西洋の哲学者、源氏物語平家物語など日本人としては本来教養として持っていなければならない内容(そして昔から古文が嫌いな小生は全くもっていない教養)など非常に幅広く、そもそも文献を読むこと自体が非常に面白かった。議論の中で他人の意見を聞くと想像もしなかった視点が提起され、とても盛り上がった。

個人的に岩波文庫の黄色版は絶対に積極的には読まないので(白版まではケルゼンやカール・シュミット、J.S.ミルなどいくつか読んだが)よい機会であった。但し、やはり光源氏には全く共感できず、議論の際に「太宰治と同じでただのダメ人間だが、所謂今で言う超イケメンであり、ただのやっかみなのかもしれない」と発言したら爆笑されてしまった。しかし、個人的に歴史上好きな3人物である、Evariste Galois、W.A.Mozart、Geroge Gordon Byronは何れもダメ人間なのでやはりダメ人間に惹かれるというのは女性に限らずあるのだなと思い返した。個人的に特に面白かったのは、オルテガの『大衆の反逆』(大衆の反逆 (中公クラシックス) | オルテガ, Gasset,Jos´e Ortega y, 和夫, 寺田 |本 | 通販 | Amazon)、孟子の『孟子』(孟子 上 (岩波文庫) | 勝人, 小林 |本 | 通販 | Amazon)、鈴木大拙の『東洋的な見方』(新編 東洋的な見方 (岩波文庫) | 鈴木 大拙, 閑照, 上田 |本 | 通販 | Amazon)である。恥ずかしながら『大衆の反逆』は今回初めて読んだのだが(テキストは一部のみ掲載なので書籍を購入)、現在に通じるところが非常に多いと感じるし、何よりも自分の価値観に対する改めての内省になった。ちょっと前に山口真由さんの『リベラルという病』(リベラルという病 (新潮新書) | 山口 真由 |本 | 通販 | Amazon)を読み(この本も非常に面白いのでお薦めである)、リベラルと保守について考えることが多かったのでその観点からも非常に参考になった。文体も比喩が絶妙で(ああいう文章が書けると教養人的でかっこいいと思う)とても読みやすいと感じた。また、システムとして属人性が高い儒教的な考え方に余り共感できない(参照:『鑑の近代』鑑の近代: 「法の支配」をめぐる日本と中国 | 古賀 勝次郎 |本 | 通販 | Amazon)こともあり、『孟子』も恥ずかしながら今回初めて読んだのだが、やはり人間は社会的動物なのでリーダシップと徳はセットでないと組織が混乱し、社会全体が没落すると再認識した。何れの文献も書かれていることを自分で実行しないと全く意味がないので、リードザセルフが重要であるということだと強く感じた。古典と言われる文献の特徴はいくつかあると思うが、個人的にはやはり解釈の多様性や著者や自分との対話の双方向性が他の書籍に比べて半端なく広いということだと思う。先日、芸術家の方々と密に議論させて頂く機会があり、その際の大きな気付きであったことは、芸術家は自分の作品は一旦作品となったらそれ自体が他と相互作用して行くものだという発想が強いということである。ビジネスの世界にいると、自身の主体性を重視する傾向が強いと思うが、あくまで自身とは切り離された客体として作品を捉え、作品自身が主体的に相互作用していくことを重視する発想は非常に新鮮であった。作品と鑑賞者の相互作用で化学反応が起こり新しい視点が生まれるというのはよく言われることであるが、そこまで徹底するのかと驚いた。

これとも少し関連するが鈴井大拙(恥ずかしながら今回のセミナーで初めて知ったのだが)の『東洋的な見方』は最も面白かった文献である(セミナー前の予習で読んだ際にあまりの面白さに速攻で岩波文庫を購入した)。エッセイ集なので読みやすいのだが、何より驚きなのは筆者が90歳を過ぎて執筆したということである(因みにJ.S.ミルもテキストに入っており、個人的に昔から好きな思想家だが、友人の奥さんを好きになり三角関係の末に結婚したと言うのは知らなかった。ジョージ・ハリスンエリック・クラプトン、パティー・ボイドみたいだと何故だかちょっとうれしくなってしまった、作品だけでなく著者の人生について学ぶのも非常に面白い)。禅についてのエッセイで言語化できない知識、知見について書かれており、西洋は「光あれ」以降の二元から始まるが、東洋は渾然一体の混沌に最大の関心を示すという趣旨の内容は非常に感銘を受けた。エッセイの中にある「色即是空、空即是色」は正にそれだが、これは量子力学的真空を連想させるし、同じくエッセイにある「有限即無限」はε-δ論法と一緒だと感じた。岡潔ディラックが言うように「情緒」や「美」に対する感覚が自然科学には重要であり、それは「光あれ」の前に付いての感性なのだなと勝手に感動してしまった。ふと、先日の芸術家の方々との議論でもある程度体系化できる「デザイン」とそれが不可能な「ファインアート」と教育との関係で盛り上がったことを思い出した。

ということで、(大学時代に精神衛生上良くないと小説を読むのを止めたのだが、もうすっかり汚れちまつたので大丈夫だと思うし)この夏は少し古典を読んでみようと思う。