(主に企業の)研究開発に関する一考察(3) ~リニアモデルのその先に~

日本の研究開発はリニアモデルで大成功を収め、その後その成功の復讐に苦しんでいるのではないか、ということを前回書いた。戦後、日本は、技術リソースは外部を積極活用し、リニアモデルと傾斜生産で経済大国へと奇跡の成長を遂げるという大きな成功を経験した。もともと日本は職人を尊ぶ文化があり、ものづくり信仰が強いという土壌があったこともプラスに作用したのであろう。一方で、その問題点の指摘もあり、太平洋戦争時の零戦グラマンの違いなどが代表例であろう(ものつくり敗戦―「匠の呪縛」が日本を衰退させる (日経プレミアシリーズ) | 木村 英紀 |本 | 通販 | Amazon )。エレクトロニクスの領域では総合電機という、所謂コングロマリット形態が日本の特徴である(あった?)が、様々な経験をさせ人を育成し(ゼネラリストとスペシャリストの組合せ)、垂直統合モデルの強み(すり合わせ、安定した部材・リソース調達等)でレバレッジするという点では同業態は成長期にはプラスに作用したと言えよう。しかし、リニアモデルへの過度な最適化の弊害とポストリニアモデルの構築に失敗し、垂直統合でのリニアモデルの限界(異様に低い流動性、過度な分割損、意思決定の遅さ等)を超えられなかったこともまた事実であろう。日本の総合電機には「1億台以上、3年未満」の壁が存在する(ジャパンストライクゾーン - 若林秀樹アナリスト (circle-cross.com)という実証分析からの指摘はその証左であろう。

リニアモデルと言う研究開発のイノベーションプロセスの考え方が出てきた背景を調べてみると、ペニシリン、サルファ剤、DDTインシュリン放射線療法等いくつかの事例からの一般化が根拠となっており、大胆な仮定が前提に存在すると感じられる(ムーアの法則が元々数個しか無いプロットをトレンド延長して一般化されたのと同じような側面があると感じる)。リニアモデルという言葉が最初に使われたのは1945年にアナログコンピュータの研究者で当時政府の科学アドバイザーであったヴァネヴァー・ブッシュが提出した『科学―果てしなきフロンティア(Science: The Endless Frontier)』だそうである。彼は原子爆弾計画の推進者でもあったので科学分野に対する軍事予算拠出の主導者の一人という立場にあり、軍事応用のために基礎研究の充実を図ることを意図していたと推測される。すなわち、基礎研究と応用研究という二元論が存在するなかで、軍事との連携に基礎と応用が連動していることを明示し、"市場に乗らない"基礎研究をカバーすることの重要性を理論的に示したと言える。人材育成のための基礎研究ということも意識されていたようで基礎研究の人材面でのEXITの考え方を明確に示した点も注目される。一方で、フロンティアを開拓するのは連邦政府の役目であるという信念や当時米国の科学的知識の輸入元であったヨーロッパの衰退によりそれが期待できなくなっていたことからそれを米国内に内部化する必要があったという事情、更には終戦後も所謂スプートニク・ショックにより米国で基礎研究重視の流れが加速したこと、などが背景にあり、ある種特殊な事情が重なっていたと言えなくもない。誤解を恐れずに言うと、そもそもリニアモデルはそこまで一般的な理論かは結構怪しいと言えるのではないか?なお、此等の事情に関しては『アカデミック・キャピタリズムを超えて-アメリカの大学と科学研究の現在-』(アカデミック・キャピタリズムを超えて アメリカの大学と科学研究の現在 | 上山 隆大 |本 | 通販 | Amazonに詳しく書いてある(残念ながら同書も絶版のようである)。

リニアモデルは、過度な一般化によりブラックボックスな側面があると言ったら言い過ぎであろうか?所謂DuPontのナイロンのようなイノベーションをマネジメントすることは極めて困難であると考えられるし、イノベーションが起こる蓋然性が見えないので(そもそもイノベーションは予定調和からは生まれないと考えられるため「蓋然性」など語る段階で大いなる矛盾ではあるのだが)、結果的に財源問題となるのはある意味必然であろう(研究開発が進めば進むほど、物理限界に近づいていくので投下資本の多寡も指数関数的に増大していく)。以前に日本を代表する企業研究所のマネジメントの方が「物性物理のような基礎的な研究を民間企業が行うのはもう困難」とおっしゃっていたのが強く記憶に残っている。なお、今週国分寺にある某研究所の方々とご議論させていただいた際に、戦後の米国の日独に対する占領政策の違いがその後の両国の製造業の発展の違いに大きな影響を与えているのではないかというご指摘を頂き、目からウロコが落ちた思いだった(確かに戦後ドイツからはフォン・ブラウンをはじめ超一級の研究者・エンジニアが米国(と旧ソ連)に流出したが日本からはそのような流出は少なかったこともあり米国の占領政策に影響を与えたのかも知れない)。

なお、人材供給(人材育成)やリスクの最適単位への分解等とセットの場合にはリニアモデルが成功したケースは日本でも多いなど、リニアモデルをベースにイノベーションを駆動するための工夫が繰り返されたと考えられる。技術と一緒に人を中央研究所から事業部開発に異動させる仕組みや超LSI技術研究組合に代表される需要表現(Demand Articulation)と組合せた(リニアモデルとモード2のハイブリッドかも知れないが)産業政策的なオープンイノベーションなどは代表例であろう。

 

しかし、日米貿易摩擦が激化した際に米国からの政治的圧力により日本では産業政策が行われなくなり、一方で海外では米国、欧州、中国などで産業政策に基づくイノベーションの活発化が進んだ。昨今、ミッション志向の経済産業政策、など経済産業政策の新機軸に関する議論(20220512sinkijiku.pdf (m-ichiro-blog.net)が盛んになっているのは明るい兆しではないだろうか。